(1)中世都市古河の歴史的前提

(図1、関東の2つの内海と二大河川水系。北関東ではその接点に古河が位置します)
(図2、二大河川水系の近接地古河と水海。両地を奥大道がつないでいます)
(図3。三十八年戦争前後の軍粮貢献豪族の分布(開始前・青、開始後・赤)。戦争開始に伴い、北関東から陸奥への軍需物資は古河・水海間を跨いで河川交通で運ばれたと思われます)
〈奈良・平安時代前期の古河、東北への軍需物資輸送港〉
奈良時代の古河(茨城県古河市)の様子は、万葉集の東歌に「まくらがの許我(こが)の渡の韓楫(からかじ)の音高しもな寝なへ児ゆえに」と謡われています。素朴な東国民衆の恋歌で、意味は「古河の渡し場では船を漕ぐ韓梶の音も高かったなぁ。あーあの古河の娘と寝ないで来てしまったな」ということですが、ここからは、古河が、渡良瀬川の「渡」(渡し場)であると同時に、中国・朝鮮由来の「韓楫」付きの船も就航していたことが分かります。
「韓楫」付きの船とは多数のオールで漕ぐもので、下の写真のように原始的な刳り船の上に板を付けて大きくした船を指します。ここから古河が単なる渡船場ではなく、交易や人の往来の多かった大規模な港津であったことが想像されます。
(韓梶付きの船。準構造船)
奈良・平安時代初期の古河地方についてはもう一つ、現在は同じ市域に入る水海(みずうみ、図2)について、古代日本の正史『続日本紀』に記述があります。
水海は古河同様古代猿嶋郡に位置し、郡の役所(郡家)があったところですが、古河とは別のもう一方の水系の常陸川の最も奥に位置していました。水海の地名は「みつ」(御津)を語源としており、ここも古河同様大規模な港津であったと思われます。
『続日本紀』の記述とは、当時の律令国家が行った、東北の蝦夷(えみし)を征圧する蝦夷戦争で、桓武天皇などが行った「三十八年戦争」(774 ~811)の開始と同時に、この水海周辺に居た豪族の日下部氏が中央政府から「安倍猿嶋臣」(あべのさしまのおみ)という姓(かばね)を与えられるというものです。そして後に、一族で鎮守副将軍にもなる「安陪猿嶋臣墨縄(すみただ)」なる人物が陸奥での征夷に活躍していくのです。
私は、墨縄の登用の背景に、河川・海上などの水上交通を用いた東国(関東)から陸奥への軍需物資(食糧・武器)輸送の問題、具体的には関東の二大河川水系(図1)を組み合わせた新たな交通体系の形成があったのだろうと思っています。そこにおいて古河は、常陸川水系最奥の港津水海に対応する、旧利根川水系の国家的港津であったと推定しました(図2)[内山1998]。それ故に猿嶋郡司であった水海の日下部(安倍)氏が取り立てられ、この氏族の力で二つの港を短い陸路で結んで軍需物資が運ばれたのだろうと推定しています(図3)。
なおこの推定は、近年の、官営鋳造工房と見られる平安時代前期の古河川戸台遺跡(古河市牧野地)の調査で裏付けられつつあります(図4)。
この遺跡からは、同じ対蝦夷戦争である出羽元慶の乱(878~879)派遣兵士の備品かと推測される把手付き片口鉄鍋の鋳型が大量に出土しています(下写真)。国家的要請を受けた郡司安倍氏による経営とも考えられ、原材料搬入・製品搬出から遺跡の近傍にそれを支える一定規模の河港が想定されます。それが万葉集東歌の「許我の渡」であったのではないかと考えています。このように、蝦夷戦争における古河の港津としての性格が明確になりつつあります[古河市2017]。
(図4、川戸台遺跡の位置)
(写真、川戸台遺跡の遺物。大量の蝦夷戦争従軍兵士携帯の鉄鍋鋳型が出土)
〈平安時代中期の古河・平将門の乱〉
(『将門記』(揚守敬本)の陸閑奥岸(古河)の箇所。従来指摘されて来ませんでしたが、将門の乱に古河が関わっているのです)
(図5、『将門記』(揚守敬旧蔵本)に拠る承平7年8月の将門の逃走ルート、水海を経て古河にまで将門は逃走しました。この2地点に将門は何らかの拠点・権利を有していたのです)
また私は、続く平将門の乱(935~941)でも古河の港津との関りを指摘しました[内山2012]。
そこでは、乱の発端である将門(まさかど)と伯父平良兼(よしかね)の対立(「女論」)の本質が、陸奥から京への国家的貢納物・私交易品(金、馬、毛皮など)の輸送をめぐる利権問題にあり、具体的には猿嶋郡司で水海に居た安倍忠良(あべのただよし、墨縄の末裔)をキーパーソンとする二大河川水系の港津古河・水海間のターミナル機能をめぐっての対立であったとしました[内山2015]。
史料的根拠となる『将門記』も、古写本の揚守敬旧蔵本から新たに見直しを行い、承平7年(937)8月、良兼の侵攻を受け逃避行した将門は、古河の河港と推測される「陸閑奥之岸」(クカカノヲクノキシ)(クカ=古河)に隠れたことを指摘しました(上記地図5、『将門記』写真)[内山2012]。「陸閑奥之岸」が万葉集の「許我の渡」ではないかと考えています。また将門の坂東独立国家志向・構想も、上記の両港津とそのターミナル機能の掌握なくしてはあり得なかったものとしました[内山2015]。
このように古河は、すでに奈良・平安時代から、河川交通上とりわけ重要な港津としての性格が確認されるのです。それも、二大河川交通の要地と言う東国(関東)全体を取りまとめる地理的・交通的位置から、対蝦夷戦争など国家的政策において特別の位置を占めていました。将門の乱の原因の一つもそこにありました。このような社会的性格を前提として中世の古河の歴史が展開するのです。
※本ブログは拙稿「戦国期古河公方城下町・古河の形成と特質」(城下町科研・北関東研究集会資料集『伝統的武家の城下町』(2017年)所収)を基に、新たに考察を加えたものです。
(続く)






