〈古河公方研究史を振り返る〉

 戦国時代「関東の将軍」であった「古河公方」(こがくぼう)についての研究は、権力構造や政治史の過程については、すでに1980年代に千葉大学の佐藤博信さんの一連の研究で詳細な成果があげられ[佐藤1989など]、また権力や経済の基盤となる「公方領国」の実態についても、同時期の高知大学の市村高男さんの研究で大概が明確にされました[市村1986]

 

 そこでは、古河公方が、「公方様」(関東の将軍)という単なる「権威」に止まるものではなく、当時の戦国期東国社会(関東)において、依然独自の権力機構を有して一定の政治的位置・役割を果たし、さらに他の戦国大名と同様に一定の支配領域(=公方領国)(図2)まで形成し、独自に支配を深化させていたことが明らかにされました。

 

 またそこでは、古河地方の地域性から、公方権力の経済的特性として、都市・商人支配の深化と河川を通した「交通・流通機能への依存性の強さ」が指摘されていました。

 

 1990年代以降には、当時学会で深められていた東国の交通・物流・都市・商人などの新しい研究動向と相まって、未開拓であった公方の経済基盤に関わる個別研究が数多く現れることになりました([内山1995][佐藤2000]以下多数)

 

(古河遠景。渡良瀬川の河川敷に昔日の古河城があった。さらにその背後に戦国期古河城下町が存在した)

 

〈私の古河公方研究の視点〉

 当時の私の研究もその点に触れたものなのですが、その関心は、「関東の将軍」鎌倉公方が、それまでの「御座所」鎌倉からなぜ古河(茨城県古河市)へ移ったのか、その理由について、公方領国(古河・栗橋・水海・関宿など)(図2)の古代以来の地政学的条件に注目し、経済的側面からアプローチしたものです。

 

 それは古河地方が、「関東の二大河川水系」(旧利根川水系と常陸川水系)とそれが注ぐ「東国の二つの内海」(武総の内海〈東京湾〉と常総の内海〈霞ヶ浦など〉)を連結する経済的位置にあったこと(図1)、それが、坂東独立国家を志向した平将門の乱(10世紀前半)など当地で展開した古代以来の歴史を規定する要因であり、その延長線上に古河公方の移座があったとするものでした。

 そしてそれは、列島社会(日本国)における首都京都に相似する地政学的特質を持つもので、東国社会を一つの単位とすれば、古河が「首都性」を帯びる場であり、それゆえに鎌倉公方の移座があったとするものでした[内山2013、2024]

(図1、関東の2つの内海と2大河川交通圏)

(図2、古河公方領国と主要城下町)

 

〈古河公方城下町研究の状況〉

 しかし、これらの研究と相関関係になる、戦国時代の公方城下町・古河の「都市」としての実態と特質については、必ずしも十分な検討がされてきたものではありませんでした。

 

 この点に関して研究史を振り返れば、すでに城郭や城下町論からの専論や言及([中嶋1984][西ヶ谷1986][宇留野2010])(『古河市史通史編』(1988)『古河城・鴻巣館』(1985)[古河市歴史博物館2010])、また港津とそこで活動した流通業者[内山2002、2007a]、古河を通る主要道の変遷と都市の変化[内山2012]等からの研究はあったものの、残念ながらそこでは、公方家臣団は何処に住んでいたか、経済活動をする商人・職人の住む宿町(町場)は何処にあったのか、交通の要地の港津は何処にあったか、などの都市構造の基礎的な事実関係についてすら、大きな意見の違いがありました。

 

 また公方城下町形成を導いた、戦国時代以前からの中世都市古河の特質や、城下町成立の契機となった鎌倉公方移座の影響など、最も本質的な古河城下町の「都市」としての固有の性格については、市村高男さんの包括的な論及[市村2012、2022]を除いて、必ずしも十分に論じられてきたものではなかったのです。

(図3、中世における主要道の推移と戦国期古河の都市要素の分布)

 

〈ブログで考えてみたいこと〉

 このブログでは、戦国期の古河公方城下町・古河について、まず基礎的事実関係から検討してみたいと思います。そのうえで、中世都市古河の特質や、城下町成立の契機となった鎌倉公方移座との関係などを考察して行こうと思います。 

 

 方法としては、通史的に都市景観の推移を追うことで上の答えを浮かび上がらせてみたいと考えます。また、併せて古河公方権力の特質の問題については、城下町における交通・流通の空間的表現である「港津」に注目して、その実態、とくに権力を下支えした流通業者や地域民衆の在り方から検討してみたいと考えます。

 

※引用論文名は(その7)にまとめて掲載します。

 

 

(続く)