〈「混乱」の思い出、天安門広場へ〉
旅も3日目です。今日はまず地下鉄を使って天安門広場までやってきました。広場は故宮(紫禁城)の南側になります(図1)。ここは、故宮の出入り口の門・天安門の前に広がる場所なので、その名があります。
(図1、故宮と天安門広場)
広場から天安門を眺めると、テレビでよく見るように、門の真上にはあの毛沢東の巨大な写真が掲げられています。門と広場の間を通る大通りでは軍事パレードなどの国家行事が行われ、それに熱狂する市民の姿もよく映し出されます。一方で、1989年6月の天安門事件ー民主化を求める学生・知識人に対して国家が人民解放軍をもって弾圧した事件ーのあった場所でもあります。
天安門事件があったのは、ちょうどその2か月前に障害のある息子が生まれた時で、自分自身の混乱と中国の混乱が重なっており、ここは人生の中でも特別の印象を持っている場所となっています。
(天安門広場の中。向こうに天安門が見える)
(天安門広場から天安門を見る)
(天安門事件(1989年))
〈清朝末裔の書家〉
天安門広場を横切った後、通りを越えて天安門に入って行きます。ツアーですので門を通ってまず右手の古い建物に連れて行かれました。そこは清朝第13代に当たるとかいう愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏のアトリエで、中庭を持つ古い建物でした。
恒珏氏は書家のようで、そこでは書と絵の実演販売をしていましたが、清朝の王室に繋がる(とかいう)人物が中国人民政府とどういう関係の下にこのような商売をやっているのか、そこがよく分かりませんでした。ただ書は素人目にも素晴らしく、旅の記念にと「福壽康寧」という書を買い求め(2万円程度だったと思います)、それは今、家の床の間にかけてあります。下はその時の恒珏氏との記念写真です。
(清朝末裔・愛新覚羅恒珏(あいしんかくらこうかく)氏のアトリエ)
〈故宮(紫禁城)へ〉
愛新覚羅恒珏氏のアトリエを出た後、紫禁城の入り口である午門(ごもん)に向かいます。
(図2、紫禁城図)
(紫禁城の入り口・午門(ごもん))
午門は「コ」の字型になっており、そこから北側がいわゆる紫禁城の城域になっています。紫禁城見学の入城者は皆ここから入ります。紫禁城は明・清代の皇城ですが、上の図(図2)のように、規模は南北961m、東西753mの大規模なもので、午門から北へ向かって中軸線上に主要な建物が並びます。現在の建物はほとんどが清王朝時代に再建されたものです。清王朝が辛亥革命で倒れた後1925年から「故宮博物院」という博物館となって一般公開されており、北京観光の最大の見どころです。見学者はここから入って、最後は北の出入り口の神武門から出るというのがルートのようです。映画「ラストエンペラー」(1988年)で見た世界が展開しています。
城内は南と北の2区に大別されます。南は公的な外朝(前三殿)で、北は私的な内廷(後三宮)です(図2)。午門から北へまず前三殿の太和殿(たいわでん)、中和殿(ちゅうわでん)、保和殿(ほうわでん)が中軸線上に一列に並んでいます。まずここを歩いて行きました。
(午門を抜け、太和門へ向かうところ)
午門を抜けると目の前に広場と太和殿に入る太和門が見えます(図2)。
(太和門の前。これを通り抜けてメインの太和殿になる)
〈「ラストエンペラー」の太和殿へ〉
(太和門を通り抜けたところ、前庭。背後は太和殿)
つぎに太和門を抜けて太和殿前の前庭に入ります(図2)。上の写真の奥に見えるのが太和殿で、最もメインの正殿です。儀仗が並ぶ中、皇帝の即位式や大将の出征、毎年の春節や冬至節などの行事、科挙の成績発表などの重要な儀式がここで行われました。映画「ラストエンペラー」の幼い皇帝溥儀の即位のシーンが撮影された場所です。
(上と同じ太和殿前。多くの儀仗が並ぶ中、儀式の様子。映画「ラストエンペラー」)
(太和殿の前庭まで来た息子)
(上の同じ場所・前庭。儀仗が並ぶ中、ここで皇帝即位の儀式が行われた。映画「ラストエンペラー」)
(太和殿の皇帝の座る玉座の前)
(玉座を覗くが、撮影しようにも人が多く、この程度しか撮れない)
(太和殿の玉座、ネット写真)
(映画「ラストエンペラー」の玉座のシーン)
太和殿の前まで来ましたが、玉座の前の扉のところは凄い人混みで、中を覗くのも難しい状態でした。紫禁城の中心のさらにその中心ですから致し方ありません。玉座はほんのちらっと見えただけでしたが、これで良しとするしかありません。
「ラストエンペラー」の最後に、中国革命後に庭師となっていた老いた溥儀(ジョン・ローン)がそこに座る回想シーンが印象に残っています。素晴らしい映画で、紫禁城での皇帝の暮らしぶりがよく分かります(辛亥革命後は幽閉状態でしたが)。
(図3、前三殿)
〈科挙試験の保和殿へ〉
(保和殿前で)
(保和殿の玉座を覗く)
つぎは保和殿にやって来ました。太和殿の先にあります(図3)。ここは役人登用制度である科挙の最終試験(殿試)を皇帝の前でするところだそうです。ここも中を覗くのは大変で、玉座も太和殿同様ちらっと見ることができた程度でした。
(保和殿の前を移動する)
〈皇帝のプライベート空間「後三宮」へ〉
(図4、「後三宮」と後宮である東西の六宮(白囲い))
つぎに前三殿の北にある「後三宮」に来ました(図4)。前三殿が皇帝の公的な行事の場なのに対し、後三宮は皇帝が日常政務を行ったり(乾清宮)、寝食をするプライベートな空間であった場所です。後三宮の最も奥となる坤寧宮は皇后の寝室があった場所で、また後三宮の東西の建物(図4、東六宮・西六宮(長春宮・景仁宮など))には多くの愛妾が住んでおり、これらはいわゆる後宮で、江戸城なら大奥のようなところです(図5)。皇帝は夜な夜なそこを訪ねていったということで、そこの説明の時は、今も残る寝室に「なるほど」とうなずいてしまいました。皇帝の重要な「仕事」の一つに皇統継続のための子作りがあったわけです。
(図5、西六宮の一つ儲秀宮の拡大図)
また、乾清宮では皇帝が外国使節にも会見していたというので、明の時代に朝貢貿易の使節として派遣された日本の商人などはここで会見したのかもしれません。独立国家であった沖縄の琉球王国も明・清に朝貢していたので、同じなのでしょう。当時の東アジアの盟主・中国を想います。
(後三宮か御花園のあたり)
最後に皇帝と皇后・愛妾らの遊楽の場であった御花園(図4)を見て、その背後の出口・神武門からバスに戻り故宮(紫禁城)の観光は終わりました。
(続く)
























