〈デジャブ〉
初めて見る景色なのに「前に見たことがある」「懐かしい」と思ったりするのをデジャブという。フランス語から来た言葉で、「既視感」のことをいう。
(ユーラシアの西の最果て、ポルトガル・ロカ岬、ネット写真)
デジャブの体験にふれた本で、思い出すものに沢木耕太郎の『深夜特急』がある。ユーラシアの西の果てポルトガルのロカ岬までたどり着いたときに、かつての大航海時代の昔に自分はここに立っていたのだ、それが甦ってきたと書いていた。
スピリチュアルの本では「前世を思い出した」などと説明するが、心理学では、脳が似たものを認知したときに起こるメカニズムの誤作動であるという。例えば、新しい経験をしたときに、過去に似た体験をしていれば普通はそのことを思い出す。しかし何らかの原因で脳がエラーを起こした場合、過去が甦ってこず、そうすると「初めてなんだけど、前に見たことがある」というデジャブ感覚が起こると言う。スピリチュアルの方が夢のある話であるが、沢木の場合には、少年時代からの強い「旅立ちへの憧れ」が大航海時代の英雄たちと重なってそう思わせたとも説明できる。
(デリーの街角で)
(その通りに出る前の路地のヒンズー寺院。親切にしてくれた老婆たち)
〈私のデジャブ体験〉
私も過去に一度だけそういう経験がある。20年前にインドへ行ったとき、デリーの裏町を歩いていて、「ここに来たことがある」「ここを知っている」「懐かしい」と突然に思ったことだ。オールドデリーの繫華街・チャンドニーチョークへ出ようと狭い路地をうろついていた時で、路地を抜け出たその通りには商店や倉庫が立ち並び、商う男たちがそこに腰掛け何もせずにただぼんやりと座っていた。私は不意に「あっ」と思い、同時に「私はここに居たのだ」と直感した。そこは店のたたずまいから何からすべてが古びており、通りにはゴミや汚物が散乱し、貧しい子供や犬などが走り回っていた。「ここを知っている」「懐かしい」。それは不思議な感覚であった。
心理学で説明するように、あの景色と似たものを私はどこかで見たことがあったのだろうか。
そういえばあの古い町並み、とくに倉庫群は、小学校に入る前に親に連れられて行った常陸太田という古い城下町の町並みにあったような、そんな記憶がかすかに甦ってきた。
秋の夕暮れの弱い日差しの中で、町の外れには大谷石造りの古びた倉庫群が確かにあった。場末の侘しい風景だった。しかしそれは、明確な色彩を帯びたものではなく、キリコの絵にあるような、この世とは違う世界の色合いであった。あまりに寂しい風景ゆえに子供心の古層に残っていたのだ。
〈「懐かしい」インド〉
今まで多くの国を旅してきたが、とくにインドには20代に2度、50になったばかりのころ1度行った。うち2度はバックパッカーのひとり旅である。
そのうち50歳の時のそのインドの旅は、今思い出しても不思議な旅であった(ブログ「30年ぶりのインドひとり旅」)。
ひとり旅の場合、異郷の地にいて「ここで死ぬことになったら」と、ぞっとする思いになることがある。地の底に独り落ちるような絶対的な孤独感である。21歳のときのインド旅がそうであった。しかし50歳のときの旅はそれを全く感じなかった。それ以外の旅は、そこは移動してきた一地点であり、いつかは日本の故郷へ帰る通過点でしかなかったが、そうではなかった。「懐かしさ」ばかりだった。
ベナレスの近くの仏教聖地サールナートではとくにそれを感じた。穏やかな農村であり、故郷にいるような不思議な安らぎがあった。そこには父母もいるような気がし、ここで死んでもよいと思った。
(サールナートの仏跡・ダメークストゥーパ)
(サールナート、巡礼に来ていたチベット人家族と)
人との出会いでも似たような「懐かしさ」を感じた時がある。すでに生まれる前から知っていて、人生では間違いなく出会う運命にあり、もう一度生まれ変わっても必ず出会うだろうと確信させた人である。自分の分身だと思った感覚でもあった。インドもそうなのかも知れない。
どのような脳のメカニズムがそうさせているのだろうか。人間の感覚とは不思議なものである。




