昨日、いつも行っている近くの競輪場(場外売り場)で、小腹が空いたのでカップ麺を買って食べてしまった。小腹は満たせたのであるが、「食べなければよかった」という後悔が遺ってしまった。化学調味料の人工的な味がいつまでも口の中に残ってしまい、それこそ「後味の悪い」ものになった。
このあと死ぬまでに何食食べることになるのだろう。高級寿司など、高価なもの豪勢なものを食べたいとは思わないが、「美味しいもの」は食べたいと思う。
手作りの、「地に着いた味」を食べたいと思っている。いつもそういう店を探して入るが、なかなか出逢えない。やはり「自分の好きなものは自分で作るしかない」との結論になってしまう。自分で作れば好みの味にもなる。
美味しさの決め手になるのは絶対的に「素材」である。新鮮で十分に成長していれば料理が下手でも「美味しさ」は伝わってくる。
夏のこの時期、私の好きなものにゴーヤチャンプルーがあるが、近所の農家直売場で取り立てのゴーヤが出ており、夕食に作ってみた。それまでの冷凍のゴーヤスライスとは全く違った味になり、独り占めにしたいほどの味になった。
ここのところ昼は麺類をと考え、少しは美味しいものをと乾麺の名品蕎麦を作って来たりしたが、やはり既製品の味である。
手打ち蕎麦はもう20年来作っているが、家族が多かった時代は大仕事だった。今も年越し蕎麦を友人宅に配るため作っているが、一大決心をしてから始める(ブログ「今年も配れた年越し蕎麦」)。それでもやはりしみじみと美味いものだと思う。専門の蕎麦店には敵わないが、他人様には出せる味になっている。

(打ち立て蕎麦)
暑いこの夏、数日前の昼食に家族3人分の蕎麦を打ってみた。私の他は女二人なので量は少なく、一回分で昔の家族6人分の3分の1で済む。打つ手間は同じであるが、さほどの力を入れずに(大量だと本当に力が要る)、茹で上がるまでを含めても30分ほどで出来上がってしまった。
そば粉は地元産の「常陸秋そば」で、オーガニック野菜を作っている近所の企業農家(森ファーム)の名品である。
これならばもう一大決心をしなくても作れそうである。
打ち立て、茹でたてのざる蕎麦を居間のテーブルに並べ食べたが、やはり美味いと思う。幸せな時間である。
死ぬまでに何度美味しいものが食べられるか、それはいつまで自分で作れるか、ということなのだろうと思っている。