前回は、同じコンパートメントになったイギリス人青年オルフさんの話をしましたが、今回は、もう少しインドの鉄道の様子についてお話ししたいと思います。
(トゥンドラフ駅から乗った寝台列車のコーチ)
〈インドの列車風景〉
前回、乗車したトゥンドラフ駅では列車がホームに入って来たのは発車時刻より1時間も遅れたと書きましたが、その間、列車が何分遅れるどころか、遅れている事実そのものすら1本のアナウンスもありませんでした。インドの鉄道ではそのようなサービスは無いようで、知りたければ乗客自身が駅員に聞かなければならないようです。
また列車の中でも日本のような車内アナウンスは一切ありません。次に何という駅に着くのか、何時に着くのかは車掌に訊いてみなければ分かりません。停車した駅名を知るには、車掌が居なければ乗客自身がホームに降りて確認するほかありません。でも停車時間は5分ほどあり、降り間違いや置いて行かれるという心配はないようです。
インドでは列車の遅れはしばしばです。トゥンドラフ駅での遅れは1時間でしたが、一般にインドの列車はその遅れを取り戻そうとはせず、逆にどんどん重なって行くようです。こんな光景を見かけました。
(カンポー駅付近の車窓風景)
(カンポー駅で。デッキからみた風景)
カルカッタへの私たちの列車が途中のカンポーという駅に停車していた時のことです。脇の対向線路を列車がゆっくりと、大きな汽笛を鳴らし続けながら入ってきます。どうして大きな汽笛など鳴らしているのか、よく見ると牛が線路に入り込んでいるのです。それを追い払うようにゆっくりゆっくりと走って来るのです。これでは遅れるはずです。
私の乗った列車も理由なく途中で何度も止まりました。もちろん放送など在りませんから理由は分かりませんでしたが、牛のような自然の障害物が数多くいたのかもしれません。私が下りるベナレス近くのムガールサライ駅に列車が到着したのは3時間遅れの夜10時過ぎになっていました。
(2005年の福知山線脱線事故。管理の行き過ぎで、分・秒単位での遅れを取り戻そうとして発生した)
〈ノープロブレム〉
インドの人たちは列車の遅れなど日常茶飯事と、まったく気にしていないように見えます。トゥンドラフ駅での遅れの時もそうでしたが、車内でも同じです。何時に目的地に着くのかなど、まったく気にしていません。
インドの人たちが頻繁に使う言葉に「ノープロブレム」(問題ない)がありますが、運行する鉄道側も乗客も全くそうでした。小さなことなど気にしないと言う、「ノープロブレム」の精神は社会全体に滲みわたっています。歴史的なものでしょうが、大らかな社会です。日本を振り返れば、遅れを取り戻そうとして起きたこの前の福知山線の列車事故(2005年)を思い出します。
忙しすぎる日本人。インドの、ある日本系銀行では日本人は日本社会のように忙しく立ち働いており、インド人の行員は「日本人はセカセカ、イライラばかり」で困惑していると、ある本には書いてありました。勤勉な日本人と大らかな(いい加減な)インド人と言う国民性の違いが背景にあるとはいえ、日本社会の忙しさはもう異常な領域まで入っていると思います。管理社会の浸透と相関関係にあるのでしょうが、何処かで上手に手を抜かないと、必ず破綻を来すと思います。私の職場の周辺を見てもそのような人が少なからず目に付きます。
(チャイの素焼きのカワラケ)
長距離列車の場合は車内販売が頻繁に通路を行き交います。売り子は皆同じエンジ色の制服を着ています。チャイやコーヒーは素焼きのカワラケに注いでくれます。紙コップと同じように使い捨てですが、カワラケですので放り捨てても環境に全く問題はありません。でも使い捨てるのがもったいなくなり、旅の記念にと日本まで持って帰ってきました。今も居間に飾ってあります。
車内販売をしている売り子の中には少年もいます。私のところに来た16・7歳ほどのチャイ売りの少年は特に美男子でした。私の息子とほぼ同年齢です。写真を一枚撮らせてもらいました。下の写真です。
(チャイ売りの少年)
(インドの水田風景、ネット写真)
〈懐かしき車窓風景と30年〉
今回の旅では車窓風景を楽しみにしていました。30年前の旅で、2等列車から見た風景、おそらくそれは、カルカッタからガヤへ向かう東インドの農村風景だったと思うのですが。椰子の木立が続き、水田では像が水しぶきを上げる南国の風景そのものでした。
また夕暮れ時に、遠くに、一人農作業をやっているサリー姿の女農夫が夕日を背に受けてシルエットのように見えた時など、一瞬のこととはいえ、この広い世界でやはり「縁」のある人なのだなと、不思議な感慨に捉われたことを想い出します。
(デッキから見えた北インドの夕暮れ)
オラフさんとの宗教論争に疲れた後、一人でデッキに立ち、ドアを開け放って外の景色を眺めてみました(窓は特急列車の時と同じで高褐色のパラフィンが貼ってあってダメなのです)。
北インドのトゥンドラフからベナレス辺りはまだ乾燥気候の強いところで、30年前に見た東インドの景色とはやや趣を異にしています。乾燥して薄褐色になった畑に低い灌木がまばらに見えます。どちらかと言うと寒々しい感じもします。しかし乾ききったヒンドスタン平原の地平線に赤い夕陽がゆっくりと沈んでいく様は、本当に心に滲みるものがあります。眼前を灌木が飛ぶように去って行きます。遠くに集落も見えます。ところどころに農夫の姿も見えます。
この乾いた大地で生きる人々。この赤い太陽の沈む夕暮れの下、私の全く知らない人々の生活が営まれている。この30年の間、私が結婚し、子をもうけ、仕事に夢中になって生活していた日本でのこの30年、このインドの大地でも人々のたゆまない暮らしがあったのだと思うと、胸にこみ上げて来るものがあります。「これを見たかったのだ、これを見たかったのだ」と心底思いました。心が満ち足りて来る思いでした。
でももう一つ別な感情も浮かんで来ます。それは30年前と今の違いです。
30年前は2等列車の中、硬い椅子に座り、これから先の旅の不安に心細い気持ちいっぱいになりながら車窓を眺めていました。それに比べ、今回は何と名状したらいいのでしょうか、不安などはなく、淡々と景色を眺めている自分がいるのです。でもインドの旅です、この先に何が起こるか、という思いはありました。淡々としていられたのは、3回目のインドであること、今回の旅も4日目に入っていること等の慣れの感情が大きかったとは思います。でも一方で「何があってもいい」という感情が根底にあったことも確かです。
(30年前、21歳の時の私、カルカッタで。知り合ったTさんと)
21歳の時は「生」の対極としての不安が大きかったのだろうと思います。50代に入ると「生」も弱まり、不安も必要以上のものは感じないのかもしれません、インドに来る飛行機の中で感じたものと同じです。
太陽は完全に地平線に沈みました。車窓は漆黒の闇となります。まだベナレスまでは3・4時間あります。私のこの旅の目的の一つがこのベナレスにあります。旅行の行程ももう半ばとなっていました。
日輪の けぶりて沈む 大地には 互いに知らざる
旅路ありけり
(続く)









