今回は25年前の思い出のホテルを訪れたことをお話ししたいと思います。

 

〈YWCAへ〉

 空から降って来た牛の糞はまことに残念でしたが、25年前に暑さを凌いだパリカバザールを出て、「そうだここまで来たらYWCAに行って見るか」と考えました。25年前の旅の時、4日間ほど滞在したところで、思い出多いホテルです。パリカバザールから歩いてすぐの距離だったと思い、地図を見てその方向へ歩いて行くことにしました。

(YWCAの看板)

 25年前のこのホテルでの思い出は、そこのコートでテニス少年サンジェとテニスをしたことです。これは今でも忘れられない思い出になっています。

 泊った翌朝、部屋のベランダから下を見てみると、裏庭となっているテニスコートで少年や学生らしき若者たちがテニスに興じています。私もテニスをやっていたので一緒に遊びたいと思い、コートに下りて仲間に入れてもらったのです。とくにその中にサンジェという中学生がいて彼とは親しくなり、滞在した3日間、連日試合をすることになりました。

(2度目のインド旅行のとき、YWCAのベランダで、下はテニスコート。26歳)

〈テニス談義〉

 その中で、試合の合間にしたテニス談義のことを今でもよく覚えています。大学生も加わった話の中で、テニスの話の傍ら、インドの社会についてもいろいろ質問してみました。その中で、尋ね辛い問題、とくにカーストについて質問したことを憶えています。

 彼らは口をそろえて「このデリーではカーストは存在しない。皆レベル(平等)だ」と言います。物乞いなどそれまで見てきた現実にはそぐわない答えだったのですが、近代都市デリーの、それもテニスに興じられる富裕層の子弟(当時のテニスはそういうレベルのスポーツでした)では意識もそこまで進んでいるのだろうと、その時は思いました。

 

 サンジェとの試合はボールボーイ付きでした。ボールボーイと言っても手足はほこりにまみれた貧しい身なりの少年です。年齢は高校生ぐらいで、サンジェよりは年上に見えました。私はボールボーイ付きのテニスなど初めての経験で、自分のプレー以外には動く必要がなく、これは確かに楽でした。でも私にはどこか、身にそぐわないな、その少年に申し訳ないな、という感情がありました。しかしサンジェは顎で使うようにその少年に指図をします。

(コートのネットに洗濯物が干してあり、右側にはホテルの洗濯物が干してある)

〈洗濯屋の少年〉

 翌日の朝早く、部屋のベランダからコートを見ていて、納得できるものがありました。まだ誰もいないコートでは、ネットの上にいくつかの洗濯物が干されていたのですが、そこでまだ残っている洗濯物を掛けていたのが昨日の少年でした。コートの隣が少年の家のようで、そこにも膨大な洗濯物が干されています。おそらくその少年の家はホテル専属の洗濯屋なのだろうと思います。洗濯屋の少年がボールボーイをしてくれていたのです。この時、私にはだいたいのことが了解できました。

(洗濯物を石に叩きつけて作業しているドーピーたち。ガンジス河畔のベナレス)

 洗濯屋は他人の汚れを落とす職業ですから、最も「穢れ」が付く仕事とインドでは昔から考えられてきました。この人々をドーピーと呼びますが、カーストではどのカーストにも入れないアウトカースト、つまり不可触選民の一つなのです。ガンジーが「神の子」「ハリジャン」と呼んで差別の解消を訴えた人々です。

 中学生のサンジェが顎で使っていた背景が何となく分かったような気がしました。「このデリーではカーストは存在しない」「みな平等だ」とは言っても、アウトカーストの人々だけは別なのでしょう。その現実をそれなりに理解させてくれた出来事でした。

(YWCAの入り口付近の風景)

〈25年ぶりのYWCA〉

 そのようなことを思い出しながら私はYWCAを捜したのですが、確かに地図の場所にそのホテルはありました。建物はレンガ色のシンプルなもので、間違いなく私が泊ったホテルでした。

 

 宿泊もしていないのに中に入るのは気が引けましたが、コートだけでも見たいと思い、入って行きました。裏庭だったと思い、その辺りに廻り込んでみましたが、コートらしきものは見当たりません。そのほかの場所にもコートはありません。裏庭ではあるのですが、すべて植え込みになっています。

 

 ホテルの従業員らしき人がいぶかし気に私を見ています。不審者に見られても困るので、事情を説明しました。「昔コートがあったはずだが」と訊くと、彼は10年前から勤めているが、その時からコートなどなかった、近くにYMCAもあるからそちらではないか、と言います。でも建物からしてこのYWCAに間違いありません。おそらく10年前より以前にコートは潰されていたのだろうと思います。

 

 思い出多いコートは無くなっていました。さほど期待して行ったわけではなかったのですが、それでも何とも言えない喪失感がありました。植え込みとなった場所を眺めながら、心の中を隙間風が吹くような寂寥感があります。

 

 青春時代に心に深く刻み込まれた思い出というものは、不思議なものだと思います。どれほど日常生活に流され暮らしていても、思い出の襞に触れるようなことがあると、特別な感情が一瞬のうちにこみ上げてきます。

(航空少年整備兵時代の父、17歳)

(海水浴にて、父(左)と、兄(中央)、私(右)、中一のとき、1967年)

〈青春と再会〉

 私の父のことで恐縮ですが、こんな思い出があります。父は戦時中少年航空整備兵として千葉県茂原市の海軍航空隊にいたのですが、当時父のいた隊では、休日には近くの農家に外泊させてもらうのがきまりでした。父は17歳の少年で、そこの家のご夫婦には親代わりのように世話になったそうです。

 

 今から25年ほど前、私の家で兄が初めて車の免許を取った時、家族で房総へドライブ旅行に出かけることになり、父がお世話になったそのお宅を訪ねることになりました。父は年賀状のやり取りはしていたようですが、終戦から35年の歳月が過ぎ、35年ぶりの再会です。

 

 玄関前で待っていたそのご夫婦を見た、その時の父の表情は忘れることが出来ません。顔を紅潮させ、眼は長い時間を追うようにして、お世話になったご夫婦を見つめます。「おお、おお」と言葉になりません。ご夫婦も同様です。父のこのような姿を私は初めて見ました。

 

 YWCAのテニスコートがあった場所に立ち、思い出として心に収まっていた25年前のサンジェやボールボーイの姿が、急に眼前に立ち現れたように思えました。でも彼らの姿も、その場もどこにもありません。YWCAでの私の感情は父の経験のように重いものではありませんが、でもどこか似ているようにも思います。

 

 中学生サンジェやあのボールボーイの少年は、元気でいれば40代のおじさんになっているはずです。このデリーの空の下、どこかで暮らしているはずです。

 25年という歳月、やはり重いものだなと心の中で感じていました。私の旅にもやはりセンチメンタルジャーニーはありました。

 

 「さて次は何処へ行こうか」。私はクルタピジャマを翻し、思い出多いYWCAを後にしました。

 

 

  そのむかし 腕を競いし コートなく ボールボーイの 

  哀しみもなし

 

  

(続く)