今回はインドの子供たちの印象をお話ししてみたいと思います。
〈ムスリムマーケットへ〉
随分ふんだくられましたが、ジャマーマスジッドの見学を無事終え、通りの傍らに立って、さあ次は何処にいこうかと考えました。押し付けガイド氏からマスジッドの東側に接する「ムスリム・マーケット」なるものを示されていたので、そちらの方へ行って見ることにしました。
ここはその名の通り、主にイスラム教徒をお客とするマーケットです。かなり広く、普通の野球場2・3個分の空き地に露店が集中しています。主にお土産やイスラム教関係の宗教用具、その他の日常生活用品などが売られています。イスラム教徒がかぶる白い帽子もあります。
(ジャマーマスジッドの庭園から見えたムスリム・マーケット)
ぶらぶらと中を歩いて行くと、露店も出さず、直に地面に座り込んで何かを売っている少女たちがいます。7・8歳ほどの少女二人で、色褪せた服を着ています。手足も埃まみれであり、髪の毛も櫛をほとんど通していないようでボサボサ頭です。
彼女たちの売っているのは香辛料でした。新聞紙で作った小さな袋に入れて売っています。インドの食事では食後に口を爽やかにするための香辛料が出されることがありますが、口に含んでみるとどうやらそれのようです。値段を訊ねると1袋10ルピーとのことで、1つ求めることにしました。可愛らしい女の子で、笑顔がとても健康的でした。ついでに写真も撮らせてもらいました。
(ムスリム・マーケットの香辛料売りの少女)
(一緒に撮影)
この時の時間は月曜日の午前10時過ぎで、学校のやっている時間です。この子たちは学校には行っていないのでしょうか。貧しい身なりからすれば、親の仕事の手伝いをしているか、親が居なければ自活しているのだろうと思います。
この旅では働いている子供たちをしばしば見かけました。物乞いをしている子供たちもそうですが、安食堂の給仕、洗濯仕事の手伝い、店番、その他さまざまな仕事をやっていました。一方、朝の通りの風景には、きれいな制服に身を包み、リキシャに乗って登校する子供たちの姿もありました。働く子供たちは当然の如く貧しい家の子供たちです。親を助けて暮らしているようです。
〈アグラで〉
バザールなどを歩けば、しばしばインドの人たちから声をかけられます。「ハロー、ハロー」。とくに手伝っている子供たちからも声をかけられます。「見ていけ」「買っていけ」ということなのでしょうが、こういうことが一度ありました。
(アグラの街のサイクリング、アグラ城前)
アグラの街を自転車で走っていた時のことです。10歳ほどの少年が「ハロー」と声をかけてきました。走っていたところはアグラ駅前の通りを過ぎたあたりで、前にお話しした凄まじい混雑をどうにか過ぎたあたりでした。
彼は私の自転車の脇について来ていろいろと話しかけてきます。「どこから来た」「どこに泊っている」「歳はいくつだ」とありきたりの会話です。そうしたら彼は私の自転車の後ろに飛び乗ってきたのです。特別何の衒いもありません。でも図々しいという感じでもないのです。そして同じような会話を続けます。私は面白いのでしばらく2人でサイクリングを続けましたが、でも彼の目的はおふざけではなく、おねだりだったのです。「ボールペンを持っているか」「その腕時計いいね、僕にくれないか」と後ろからしつこく声をかけてきます。
30年前ほどではなかったのですが、街で出会った子供たち、とくに貧しいなりの子供たちは旅行者と見るとしばしば物をねだってきました。物乞いの子供たちが「バクシーシ」と金をせびるのと似ていなくもありませんが、でもさほど嫌な感じはしません。ねだられたものは旅行に必要なものですし、当然のごとくいつも「だめだ」と言って、それでお終いです。その子も私にその気がないとみると、さっさと自転車を下りていきました。そして私に向かって明るく「グッドバイ」と一言言っていくだけでした(物乞いの子供達の乞う様にはどこか悲惨さがります。後でお話ししたいと思います)。この子たちの場合には実にあっけらかんとしているのです。
インドの人たちは大方が人懐っこい人たちでした。何かあると傍にいるだけで首を突っ込んできます。子供たちも同様です。
アグラやベナレスでは、小学校の中や校門の前でウロウロしたことがあったのですが、私を見かけると皆興味津々で寄ってきます。そして写真でも撮ろうものなら一大撮影大会と化してしまいます。デリー郊外の観光地クトゥブ・ミナールに行った時には、遠足に来ていた中学生ぐらいの男の子数人から写真に一緒に入ってくれと声をかけられ、応じていると先生も入れてそのクラス全員と記念写真を撮ることになってしまったほどでした。
(クトゥブミナールに来ていた中学校の生徒・先生と記念写真)
〈ベナレスで〉
インドの子供たちは本当に元気でした。ベナレスのボート漕ぎの少年ラタンとダブルーも印象に残っています。
ベナレスの二日目の朝、前日同様早朝にガンジス河のガートに行き、ボートに乗ってガートめぐりをしました。そのボートの漕ぎ手がダブルーで、案内役がラタンでした。ラタンは15歳、ダブルーは18歳です。ラタンは最近父親が事故で亡くなって、兄弟4人で働いているのだと言っていました。ダブルーは英語が達者で、ラタンへの通訳もやってくれます。素直で聡明そうな子で、顔つきが昔のメジャーリーガーの井口選手によく似ていました。
ガートめぐりは1時間の約束でしたが、一生懸命に方々をめぐってくれます(詳細は後でお話ししたいと思います)。そのため15分近くもオーバーしてしまったのですが、「平気、平気」と言ってまったく気にしません。最後は乗船したダシャジュワメードガートまで猛スピードで漕ぎ続けます。隣には友達の漕ぐボートが近寄って来て、競争です。「パキスタン、パキスタン」(どうやらパキスタンからの移民の子のようです)とからかいながら漕いでいます。ふざけたり、大笑いしながらの競争です。この子たちは私の子供たちと同年齢ですが、全くくったくがありません。心身ともに健康そのものです。
(ボート漕ぎの少年、ラタン(左)とダブルー(右))
これらは皆働いているインドの子供たちですが、貧しいながらも何と幸せに見えることか。日本の子供社会に見られる陰湿ないじめや引きこもり、また甘えの裏返しのツッパリなど、不健全で歪んだものは何処にも感じられません。
(小学校5・6年生のころ、右側が私、中央は双子の兄、昭和41年ごろ)
(小学校の友達と騎馬を組む。5・6年生のころ、中央が私、左側が兄、昭和41年ごろ)
〈私の少年時代〉
でもそういえば、私の少年時代も似たようなものでした。外で働くことはなかったものの、親の手伝いは不断にやっていました。兼業農家でしたので、夕食後に翌朝市場に出荷するほうれん草を丸いだり、田植え、草取り、稲刈りなどの農作業も親と一緒になってやっていました。戸外に在った風呂場の水汲みも日課の一つでした。中学からは水戸の私立中学へ進学させられたのでそれが無くなりましたが、1960年代までの日本では、私たちのような「働く」子供たちはごく普通にいたのです。そうしなければ生きていけなかった時代だったのです。
〈物乞いの子たち〉
でも貧しい子たちの学校のことは気になりました。デリーのムスリムマーケットの少女たちはおそらく学校には行っていないと思います。身なりからは或いはアウトカーストの子供たちかもしれません。ラタンは学校へは行っていると話していましたが、朝は7時を過ぎていましたので、もう学校が始まる時間ではないかと言いますと、学校は2部制になっていて、前半が7時から11時、後半が11時から3時までだと言います。朝働いて、昼から学校へ行くのだというのです。彼らのカーストはボートマンです。教科書に載る4つのカーストで言えば、最も下のシュードラに含まれます。
豊かな家庭の子供たちは身なりをきちんとしてリキシャに乗って朝から学校に行き、貧しい子供たちは家計を助け仕事をしながら学校へ通います。そしておそらく最下層のハリジャンの子たちは、多くは学校へ行くこともなく働き続けるのだろうと思います。
(リキシャで学校へ通う豊かな家庭の子供たち)
私はとくに物乞いの子たちの、その眼が気になりました。ラタンやダブルーのような健康な眼はしていません。感情のない空疎な眼でした。その眼で「バクシーシ」と力なく呟くだけです。カーストが私にはどう見えたのか、それはまた別にお話ししたいと思います。
確かなる 大地に生きる 子らの顔 白き歯こぼれ 生
命清々
ガンジスの 河面を漕げる 少年の 腕はしなやか 赤
きシャツから
(続く)








