30年ぶりのインドひとり旅(その10) 

 

  ー物乞う人々ー 

 

〈チャイ売り屋台〉

 もう走るのは諦めました。夜も明けると通りにも人が段々と増えてきます。とてもジョギングなどできる状態ではありません。インドの人たちの朝は早いようです。

 

 朝市の場所からさらに通りを進んで行くことにしました。地図は持って行かなかったのですが、道が分からなくなってもどうにかなるだろうと思っていました。

 

(チャイ売りの屋台)

 曲がり角になっているところまで来ると、そこにはチャイ売りの屋台が出ています。朝早くから仕事に出掛けるのでしょう、男たちが立ったままチャイを啜っています。皆服装は粗末です。私もそこに立ち止まり、屋台の兄ちゃんにチャイを求めました。

 

 チャイは一般には紅茶のことですが、インドの場合はミルクティです。街の屋台ではすべてこれです。注文を受けてからお湯を沸かしますので少し時間がかかります。きれいなカップではありませんが、わずか3ルピー、8円ほどです。

 

〈ジャマーマスジッドへ〉

 インド最初のチャイを啜りながら辺りを見回すと、道路標識の上に英語で「JamaMasjid」と見えます。この近くにイスラム寺院の「ジャマーマスジッド」があるようです。面白いので行って見ることにしました。

(デリーのジャマーマスジッド、ネット写真)

 ジャマーマスジッドは、16・17世紀に北インドを支配したイスラム国家ムガール帝国の皇帝シャー・ジャハーンが1658年に礼拝所として作った寺院です。マスジッドとは一般にイスラム教の礼拝所を指しますが、イスラムの歴史がある所ではどの街にもマスジッドがあります。その中でオールドデリーのマスジッドはインド最大の規模だと言います。

 

 チャイ屋台の場所から左へ折れ、辺りの人たちに聞きながらマスジッドを目指しました。インドの人たちは皆親切で、訊けば必ず教えてくれます。でも答えはまちまちなのです。この時も、ある人は「右に曲がれ、その公園の中だ」、ある人は「左に折れてまっすぐ行けば建物が見えて来る」と言います。こちらの英語が不十分なこともあったのでしょうが、インドの人たちはその辺のところがかなりアバウトなのです(この旅では同じようなことは何度もありました)。

(道からジャマ―マスジッドを眺める)

 でもジグザグに歩きながら行くと、赤色の建物の上に大理石の白いドームが立つマスジッドが見え、どうにか辿り着きました。

 

〈物乞う人々〉

 階段下の入り口まで行ってみると、両側には粗末ななりをした男女が10人以上並んで座り込んでいます。そこにいた老女のサリーは色褪せてもうボロ布の状態です。皆一様に痩せていて、背中を丸めてこごまっています。一目で物乞いと分かりました。

(物乞いの老婆、指がない、ネット写真)

 一人の老女の前に立つと、か細いうめき声で「バクシーシ・・」という言葉を発してきます。「バクシーシ」とはヒンズー語で「お恵みを」というほどの意味ですが、施しを求めてきたのです。差し出された彼女の手を見ると、指がありません。付け根の部分が白くただれており、ハンセン病患者のようです。彼女は棒のような腕を私に差し出してきます。

(物を乞う人々、ネット写真)

 インドの寺院の前ではこのような人たちをしばしば見かけました。寺院だけではありません、路上で寝ている人たちも同じです。起き出しては物乞いをしているのです。おそらく彼らはどのカーストにも入れないアウトカーストの人々なのだろうと思います。

 

 30年前の時は、インドに着いた最初の朝、ホテルの前で腿から下のない10歳ほどの少年が車輪を付けた台の上に付せ「バクシーシ」と物乞いをしていました。脚のないのはこの場合はハンセン病ではなく、親が幼児の時に切ってしまうとのこと、その後教えてもらいました。

 

(路上の乞食、ネット写真)

(21歳の時、最初に着いたカルカッタで、ショックの連続)

 

 この様は私には本当にショックでした。親は子供を見世物にして食い扶持を稼ぐのです。また子が親の職業を継ぐカースト制度の下では、親は一生「食いっぱぐれ」がないようにと脚を切ってしまうということなのです。悲惨であれば悲惨であるほど稼ぎがいいので、そうする親もいるのです。脚のない少年が路上で這いずり回っている様は30年経った今でもはっきりと瞼に浮かんできます。そのような人々を今回の旅でも何度も見かけました。

 

 アウトカーストの人々はインド人口のうち1割はいると、ある本には書いてありました。不浄であり穢れあるものとして長く卑賤視されてきた人々です。触ることも禁忌とされて不可触選民とも言われます。乞食はその生業の一つですが、他に洗濯や掃除などの汚れを落とす職業や、大道芸人、娼婦、その他社会の底辺の仕事を行っています。マハトマ・ガンジーが「神の子」(ハリジャン)と呼び、社会的地位の向上と差別の解消を図った人々です。

 

 物乞いに対してはインドの人々はそれぞれの額でお金を与えます。それは一種の喜捨で「善行」になるのです。

 

(デリーで見かけた、袋を持って物を乞う人)

 外国人はとくにお金を持っていると思われて、しばしば物乞いに付きまとわれます。この時どうするか、ガイドブックではほとんど「無視すること、顔を見ないこと、お金は出さないこと」と書かれています。私も30年前のカルカッタで、たまたま5・6歳の女の子に与えたら、周囲の乞食の子供たちにあっという間に取り囲まれ、慌てて近くのレストランに逃げ込み「難」を逃れたことがありました。

 

 今回の旅ではそのようなことはありませんでしたが、デリーでリキシャに乗り、信号待ちで止まった時に、赤ん坊を抱えた若い女の物乞いに脇腹を何度も突つかれました。彼女は赤ん坊の口に手を持って行く仕草を繰り返します。「赤ん坊のために金をくれと」その仕草で示しているのです。彼女は情けなさそうな表情をして私をじっと見つめます。私はその時は「チャロ、チャロ」と追い払いました。「チャロ」とはヒンズー語で「どけ」とか「離れろ」という意味で、ガイドブックの通りにしてみたのです。

 

(赤ん坊を抱いた乞食の女、ネット写真)

 でも、その時にとった行為は澱(おり)のように心の底に遺りました。あれでよかったのだろうか、身動きも出来ないほどの状態になるのでなければ施しをするべきではなかったか。降りる時、オートリキシャの運ちゃんに「あなたならあの時どうしますか」と訊いてみました。すると運ちゃんの答えは、インド人ならば貧しくても皆施しをするというものでした。

 

 たまたま裕福な日本人に生まれつき、経済格差ゆえにインドを旅できる私こそ最も施しをすべき存在ではないか。「施しをしてもきりがない」「インドの貧しさが解消できるわけではない」とよく言われ、私も30年前の旅ではほとんどそれをしませんでした。でも今回は気持ちが少し変わっていました。「人間は生まれによる運・不運の上にそれぞれの生が展開するのだから、運良きものは施しをする、人間社会とはそういうものではないか」。決してこれは、上から下を見下す行為でもなく、傲慢な「同情」でもないと思います。たまたま私たちはこの生に生まれついただけで、私がこの物乞いの女だったかも知れないのです。

 

 ベナレスではガンジス河のガートのところで、10歳ほどの可愛らしい女の子が弟と思われる赤ん坊を抱いて私に近づいてきました。こざっぱりした服装をしており、ネックレスも付けています。「バクシーシ・・」。えっと思いました。彼女は先ほどの女のように弟の口の方へ手を持って行き、ひもじい口に食べ物をと言うようにお金を求めてきました。彼女は不可触選民の子だったのです。取り囲まれるほどの乞食の子らは周囲にいないようなので、私は2ルピー硬貨を与え、ついでに写真を撮らせてもらいました。下の写真がそれです。

(ベナレスのガンジス河・ダシャメードガートの乞食の少女)

 

 オールドデリーのマスジッドでは、ハンセン病の手に気押されて施しはできませんでした。私は乞食たちの間を抜け、階段を上り、門の内に入ろうとしましたが、ショートパンツではダメだと遮られました。ジョギングスタイルだったのです。イスラム寺院に入る服装ではなかったなとその時気づきました。

 

 

  朝もやに 仕事の前の 一服と チャイを啜りし 男ら粗末に

 

  門前に 物乞い並び 吾が前に 指なき手を出す 老婆小さく

 

 

(続く)