(西安の旅、その11)

 

 大興善寺の見学が終わった後、つぎに行ったのは古い西安が残っている古文化街と回民街である。時間は午後3時ごろになっていた。

 2か所ともそれまで回っていた寺院とは違って城壁の中の場所である。私たちは城壁の中央の入口である南門付近でバスを降り、まず行ったのはすぐ右手にある古文化街だった(上地図)。

(古文化街、ネット写真)

 ここはツアーの定番のコースのようで、他の観光客らしい集団もちらほらと見えた

 南北に走る通りの両側には、古い店構えの骨董品店や、筆・墨など書画用品を売る店・露店が立ち並び、古い中国を感じさせる街角風景が続いていた。以前に行った北京の胡同(フートン)ほどではなかったが、魯迅の小説に出て来るような、戦前からの街並みという雰囲気もちょっと感じさせた。ぶらぶらと息子と二人でひやかして歩いたが、結局これというものには出遭えなかった。

 古文化街を見終わり、次の回民街へ行くためまたバスに戻った。

 バスは南門のところに止めてあったが、これも古い西安を感じさせるものである。南門は正式には安上門と言い、明代に造られ、以後西安を囲む城壁の最大の出入り口となった。逆U字の大きな通路の上には立派な三層の楼閣があり、威容を誇っていた。南に開かれた中軸線(北大街)の門であるので、いわば明の都・西安城の羅城門である。逆側には昨日行った鐘鼓楼(鐘楼)が遠くに見えた。ここだけでも古い西安を感じさせる観光スポットの一つになっている。

(内側から見た南門と三層の楼閣)

 回民街は南門からさほどの距離ではなかった。バスは南門から北大街の通りを北へ向かい、昨夜行った鐘鼓楼(鐘楼)の交差点を東大街へ折れてすぐのところで私たちを降ろした。

(回民街の大通りを歩く私たち)

 私たちは東大街から北に入る一本の通りをガイドの馬さんに率いられて歩いて行った。その通りはすぐに人混みとなり、ちょっと異国的な雰囲気のある場所になったが、そこが回民街(イスラム人街)だった。両側の店舗では露店を出し、それとわかる羊の串焼きや脚の部分の焼いたものなどを売っており、呼び込みの声が至る所から聞こえてきた。独特の匂いがあり、心が浮き立つような騒めきのある場所であった。その通りは南北に500mほどあったが、その通りからは東西に何本もの路地が延びていた。私たちは一番北の場所まで行き、そこを集合場所として、しばし解散となった。

(回民街の大通り)

(回民街の大通りで見かけた麵延ばしの実演。このお兄さん、イスラムの白い帽子をかぶっている)

(西安・回民街のビャンビャン麵。ネット写真)

 大通りで面白かったのは麵の生地を延ばす作業を店頭でやっていたことである。実演してお客を呼び込もうということなのだろうが、実に見事な手さばきであった。私は思わず撮影してしまった。上の写真がそれである。この麵は回民街の名物の一つ、ビャンビャン麵なのだろうか。今ネット記事を見ると、こういう実演店がいくつもあるのだと言う。

(通りから入った小路。羊肉のどの部分だろうか、串に刺したものが売られていた。それを眺める息子)

 

(路地にはいろんな露店が出ていた。これもイスラムの料理なのだろう。売っている人たちもイスラムの白い帽子や、スカーフを巻いている)

 

 回民街は、イスラム教徒である回族のコミュニティが形成されたエリアで、2万人の住民がいるという。中国には現在2・3千万人のイスラム教徒がいるとされるが、西安の回族は、他のイスラム教徒と違い、歴史的な優遇政策と地域社会への現地化を通じて安定した地位を築いてきたという。(ネット記事、以下同)

 

 西安の回族の起源は、唐代に安史の乱を制圧するために呼び寄せられたウイグル帝国軍にあるといわれ、唐代に使われた回鶻(ウイグル)や回教(イスラム教)という言葉から回族、と呼ばれるようになった。

 

 西安の回族は、唐代には数は少なかったものの、その後の元の時代には商業や行政で重要な役割を果たして優遇され、明・清時代では自由な宗教活動が許され、多くのモスクと共に、居住エリアが整えられ、人口も増えたという。一方で漢民族との融合が進み、現在では使用言語は漢語(中国語)であり、見た目にも普通の漢族とは区別がつかないという。ただ生活の面では依然イスラム教の戒律を守って暮らしており、長い宗教的伝統は維持されているという。

 

 回族の料理はイスラム教の戒律に基づいた「ハラル」と呼ばれる料理で、豚肉は禁忌で替わりに牛肉や羊肉を使用する。串焼きなど羊肉料理が多いのはそのためである。

(羊肉を焼いている店先で、ミンチにして巻きつけた串焼きを買って食べてみた)

(その路地を羊肉の串焼きを口にくわえながら歩く。乞食の男の脇を通り過ぎる)

 

 私と息子は、同じツアーの千葉から来られたご夫妻と一緒に東西の狭い路地に入り、羊肉を焼いている店で羊の串焼きを買って食べてみた。それはミンチにしたものを串に巻き付けて焼いたものだったが、想像していた以上に美味しく、息子は「これは美味い」と声を上げていた。

 店の中で食べるほどの時間が無かったので、私たちはそれを咥えながら路地歩きをしたが、歩いて行くと前から来た人たちが路上のものを避けながら通って行く。何だろうと目をやってみると、それは路上に這いつくばっている男であった。伸び放題の髭や頭髪、身には薄汚い襤褸布を纏い、頭の先には物乞いの椀を置き、右には杖が無造作に置かれていた。黒い塊となって身動きせず、顔も伏せたままだった。立つことも出来ない物乞いであった。可哀そうと言う感情の前に、その場の賑やかさとは対極の異様さに一瞬頭が混乱したが、私はその男を凝視することが出来ず、脇を通り抜けるだけだった。「中国にもまだあるんだ」と心にずしんと来るものがあった。

 

 50年前にインドに行った時、初日のカルカッタで、物乞いをする膝から下のない少年が路上を這いずり回っている姿を見た。「バクシーシ」(お恵みを)と台車を手で漕ぎながら近寄ってくる姿に21歳の私はとてつもないショックを受けたが、その後乞食は街の至る所で見かけ、それは当時のインド社会の貧しさやカーストと一体的なものだと理解して行った。旅を続ける中、私は次第にその景色に慣れていったが、今中国社会の経済的発展の中でこのような異様な物乞いを見ると、「悲惨」と言う想いが際立ち、思わず目をそらしてしまったのだ。同じようなものをイタリアのフィレンツェでも見たが、何がそうさせているのだろうか。それが分からない。

 

 豊かな日本から観光で来た私と、改革開放政策で日本を追い越した中国、その中の歴史的伝統を持つ観光都市・西安、さらにその街で異民族としてコミュニティを作り生き抜いてきたイスラム教徒の回族、そしてそこで這いつくばって物乞いをする男。これらはどのようにつながっているのであろうか、回民街を浮かれて歩いていた私は、この景色に頭をガツンと殴られた思いがし、そのようなことを考えてしまった。

 

(続く)