(西安の旅、その10)
〈昼食〉
小雁塔を見た後、時間も昼過ぎになっており、次の見学地の大興善寺へ行く前に近くの中華レストランでいつもの回転テーブル料理をいただいた。ツアーには定番とはいえ、日本ではあまり見かけない料理も回ってきて、中華料理に詳しい隣の方にいろいろ説明してもらって食べた。食事は旅の楽しみである。
〈大興善寺へ〉
大興善寺は唐の都長安のメインストリートの朱雀大路のすぐ脇に立地しており、先に行った小雁塔(大薦福寺)の南側に位置している。大興善寺がツアーのコースに組み込まれているのは、歴史のある大寺で観光名所になっていることもあろうが、ここも青龍寺や大薦福寺同様、日本僧ー空海や円仁ーが学んでいるという経緯もあるのであろう。
(図1、大興善寺境内図と歩いたコース)
〈大興善寺の性格〉
大興善寺は720年ごろにインド密教僧の善無畏(ぜんむい)や金剛智(こんごうち)がこの寺で密宗経典を翻訳し、密教を伝授したことから、中国における密教発祥の寺と言われている。
もともと隋代の開皇2年(582)に初代文帝にによって創建されたもので、当初から仏教治国策のための中心寺院、国家的大寺であった。唐代に入ると一時衰退したが、安史の乱(755~763)後、密教僧の不空によって再興され、不空は玄宗皇帝に灌頂を行うなど国家と密接な関係を結び、さらに次の代宗には様々な援助を受けて、寺は国家的寺院として再び繁栄を取り戻した。密教系官寺の最も格のある寺で、現在の日本なら東大哲学科のようなものである。
不空の弟子には有名な青龍寺の恵果がおり、青龍寺とこの大興善寺は、唐代には長安の二大密教寺院として名をはせた。密教を希求する日本僧とも深い関係があり、空海は804年にまずこの大興善寺で学び、翌年に恵果和尚の青龍寺に移っている。円仁は開成5年(840)に長安で密教の師を求めたとき、ここの密教僧・元政に教えを受けた。密教の世界観の一つを示す「金剛界大法」(金剛頂経に拠る教え)の伝授を受け、翌年2月の修了と共に阿闍梨(指導者)の位に上る伝法灌頂も受けている(『入唐求法巡礼行記』)。
〈大興善寺を歩く〉
私たちはまず寺の入口である山門を通り、最初の伽藍である天王殿に入った(図1)。
この寺には唐代の建物や仏像は残っておらず、多くは明・清時代以降のものだと言う。この天王殿もそのようで、堂内は極彩色で彩られ、中央の本尊には金色に塗られた布袋さまが安置されていた。寺院には似合わない豊満な顔と体躯にはちょっと驚いたが、唐末に実在した布袋さまは、中世以来中国では「弥勒菩薩」の化身とされ、その名で祀られている。また周囲にはこれも極彩色の四天王像が安置されていた。
天王殿を抜けると、その先には大雄宝殿が見えた(図1)。大雄宝殿とは寺の「本殿」のことで、概ね寺の中心仏が祀られている、ここは撮影禁止だったので写真は撮れなかったが、密教の五智如来を祀っていた。
(天王殿を抜けると本堂の大雄宝殿がつぎに在った)
(大雄宝殿の五智如来。5つの如来像が祀られていたが、中央が密教の中心仏の大日如来。智拳印を結んでおり、金剛界のもの。ネット写真より)
五智如来は5つの如来の総称で、密教の2つの世界観(金剛界・胎蔵界曼荼羅)の内、金剛界にある中心仏の一つで、金剛五仏などともいう。中央に大日如来を配し周囲を取り巻くように4如来を置くが、ここでは両脇に各2仏を置く形をとっていた。大日如来の印相(指の組み方)は「智拳印」で、これは金剛界の大日如来に見られるものである。寺の本堂の大雄宝殿に大日如来を祀っていることは、この寺が密教寺院であることを示している。この本堂も新しそうで、遡っても明・清時代の創建になるものであろうか。
ところで密教とは、7世紀頃にインドで始まった仏教(大乗仏教)の一派で、すでに『大日経』『金剛頂経』などの経典が作られ、それに基づく独自の体系と儀礼を持っていた。最初に書いたように、中国へは8世紀初頭にインド僧の善無畏や金剛智によって伝えられ、この大興善寺で密教経典の翻訳が行われた。この寺が中国密教の発祥の地と言われるのはそういう理由からである。
密教の最大の特徴は、宇宙の中心的存在(最高神)は「大日如来」と説明する点である。「大日如来」は宇宙の真理そのものを象徴する存在として位置付けられ、小乗仏教やそれまでの大乗仏教で中心として位置付けられてきた釈迦如来(ブッダ)やその他の仏たちは、皆大日如来の化身、姿を変えて現れたものと説明される。大日如来は、あらゆる仏の根本となる「法身仏(ほっしんぶつ)」であり、時間や空間に縛られることのない、永遠不滅の真理を体現する存在とされる。
日本への伝来は、先に書いたように平安時代の初めに空海や円仁によってなされ、以後真言宗・天台宗として広く社会に広まり、我々の宗教文化の重要な部分を培ってきた。私の実家も今の家も真言宗寺院の檀家なのであるが、まさにその出発点となる寺がこの大興善寺なのである。
大雄宝殿を出ると、左側に空海の真鍮像と7世紀初頭の遣隋使派遣で隋にやって来た日本人留学生高向玄理の記念碑があった。空海像は青龍寺の空海記念碑と同じように日本からの寄付で造られたものだとガイドの馬さんが言っていた。最初空海が学んだゆかりの地であるからであろう。高向玄理は帰国後に大化の改新で活躍し、のちに再び遣唐使の押使として中国に渡り最終的にはこの長安の地で死去している。この寺と関わっていたのであろうか、その点はよく分からない。
(図2、大興善寺の一番奥の3小堂の位置。白い点線で囲ってあるところ)
大雄宝殿の先の両側にはそれぞれ地蔵王堂(平安地蔵殿・救苦地蔵王殿)があったが、ここは後廻しということで、先にその奥にある文殊殿、観音殿、普賢殿を見ることになった(図1)。
(文殊殿にて)
奥の右手にあったのが文殊殿で小規模のお堂である(図2)。中には入れず、入り口に立つだけだったが、その名の通り文殊菩薩が祀られていた。お堂の側面には数多くのマニ車が並んでおり、1回廻すと1回お経を読んだ功徳があるとされ、息子は車の下に付けられている棒を掴んで幾つものマニ車を廻していた。マニ車は若い時にネパールのカトマンズに行き、そこのチベット密教の寺院でも見かけたが、ここで見かけるとは思いもよらなかった。同じ密教寺院であるからなのだろう。
(観音殿にて)
つぎに一番奥になる観音殿へ廻った(図2)。ここも小規模のお堂で中に入ることは出来ず、入り口から中を覗くだけだった。ここにもマニ車があり、入り口両脇に巨大なマニ車がそれぞれ置かれていた。息子は下の把手を持って廻していたが、かなりの力が要るようであった。
(普賢殿にて)
つぎに観音殿の左手前、ちょうど最初に見た文殊殿の向かい側にある普賢殿に入った(図2)。ここも先の2つのお堂と同じ規模で、やはり中に入ることは出来ず、外から覗いただけだった。
〈大興善寺の伽藍配置と古河市の「関戸の宝塔」〉
3つのお堂は、同じ規模のものが3者ちょうど向かい合って建つ形になっていた(図2)。実はこの時私の頭に浮かんできたのは、私が今住んでいる古河(茨城県古河市)の関戸というところにある平安時代末期の石造宝塔(実際は笠塔婆、通称「関戸の宝塔」)のことであった(下写真)。若い時分に文化財保護審議会委員として調査したのだが、非常に興味深い石塔で、塔身の上部には梵字(種子とも言って仏を表わす)が8つ彫られており(下図)、大梵字の間に彫られている小梵字がこの3つのお堂の仏と同じであったのである。弥勒菩薩を加えれば文殊菩薩・観音菩薩・普賢菩薩の4菩薩である。
(関戸の宝塔) (関戸の宝塔の3D写真、本間岳人氏作成)
関戸の宝塔について少し説明するとつぎのようになる。
関戸の宝塔は2mほどの高さで、平安末期の当地の武士・下総下河辺氏が仁安4年(1169)に造立したと見られるが(拙稿「東国武士団と都鄙の文化交流」『実像の中世武士団』高志書院)、紀年銘があるこの手の石塔では日本最古のものとなる。とくに梵字の下に彫られている銘文が中国の書体、それも唐代やその前の六朝時代の字形を持っており(下図)、中国文化の影響を受けて作られた供養塔であることが明らかである。前のブログで書いた小堤・円満寺の密教法具2点(三鈷杵・五鈷鈴、唐代作成)と同じ性格のものである(「中国・西安の旅(その4、空海の学んだ青龍寺))。
(塔身の銘文部分)
(銘文の拓本(右)と字体(左)。一番左が関戸の宝塔の字体で、その右が同字の六朝・唐代の字体。非常に類似する)
関戸と小堤は隣り合っており、この地を支配した武士・下河辺行義が棟梁の源頼政の郎党(家人)として京都で仕える中、日宋貿易で入ってきた唐文化遺産を入手してこの古河の地へもたらしたものと考えられる(同前拙稿、ブログ「東国武士と京都文化」)。
とくに大梵字の間の小梵字の示す仏の配置は注目すべきもので、中国密教で始まった曼荼羅図、とくに胎蔵界曼荼羅図に共通するものである。
(胎蔵界曼荼羅図)
(中台八葉院)
胎蔵界曼荼羅には、中央に大日如来とその周囲の4如来と4観音が鎮座する「中台八葉院」が描かれるが(上図)、小梵字はその4観音と全く同じなのである。ここからこの関戸の宝塔は胎蔵界曼荼羅の影響を受けたものと推察できるが、小梵字だけでなく他の4つの大梵字の方も、梵字だけでは顕教四方仏(弥勒菩薩(大日如来に替える)・薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)との見方も出来るが、金剛界大日如来を置いている点を除けば、その梵字の意味する仏は中台八葉院の3如来(宝幢如来・無量寿如来・天鼓雷音如来)にも共通するのである(上図)。大梵字の中心に金剛界大日如来の梵字(バン)を配している点では金剛界も含まれていて両界も示すが、いずれにせよこのように関戸の宝塔の梵字(種子)配置は曼荼羅図、とくに胎蔵界の「中台八葉院」をベースに密教世界を表現しているものと見ることが出来るのである。
(大興善寺の伽藍配置と関戸の宝塔の梵字(種子)配置の共通性)
このように関戸の宝塔の仏配置と大興善寺の伽藍配置には共通点が認められるのであるが、この点からすれば、関戸の宝塔はかなり中国唐代の密教思想を反映したものと見ることが出来、事実銘文の書体が中国六朝・唐代のそれと同じであることはその可能性を示唆するものなのである。大興善寺の一番奥の文殊殿・観音殿・普賢殿の伽藍配置は関戸の宝塔同様、唐代に成立した中国密教の曼荼羅世界を一定程度反映しているものではないだろうか。
加えて大興善寺全体の伽藍配置もその推測を促してくれる。大興善寺の伽藍配置では、一番南に弥勒菩薩の化身である布袋さまの天王殿があったし、最も北の3小堂と併せればそれは「中台八葉院」の4菩薩の配置となる。そして寺の中心には金剛界大日如来を中心とする五智如来の大雄宝殿が位置しており、これらを総合すれば、大興善寺全体の伽藍配置は中台八葉院の中心・大日如来とそれを取り巻く4菩薩になるのである。
もちろん中台八葉院の4如来はなく、五智如来にしても胎蔵界ではなく金剛界の仏であり、さらに五智如来の大雄宝殿と3小堂の間には2つの地蔵王殿があり、厳密には胎蔵界の中台八葉院そのままではない。地蔵堂は地蔵の下に道教の十王思想から生じた閻魔大王も安置されており、後代の様々な信仰が加わっている。天王殿の弥勒菩薩も中世以降広まる「布袋さま」の姿である。現在の大興善寺は密教を反映しながらも様々な歴史的変形を受けてきた寺院と見なければならないのだろう。しかし根底には、やはり「中国密教発祥の寺院」が生き続けており、それを今に伝えているのではないだろうか。そのようなことを最も考えさせられたのである。
(地蔵王殿の一つの「平安地蔵殿」を眺める。中央には地獄で亡者に裁きを与える閻魔大王とそれを救わんとする地蔵菩薩が安置されていた。地獄の亡者の像はリアルで怖かった。地蔵信仰が広まった中世以後のものである)
中国密教の始まりの寺を見られたことは大変良かった。伽藍配置からしか古い段階の密教をイメージ出来なかったが、曼荼羅を反映した(であろう)それと、日本の平安末期の武士の密教信仰の一端ー唐文化への憧れと共通性への志向ーを垣間見た気持ちになって、大変貴重な知見となった。
(続く)




















