(西安の旅、その9)

 

 小雁塔を見終わって私たちは次の見学地の大慈恩寺にやってきた。この寺の境内こにはあの有名な大雁塔(だいがんとう)がある。西安の街で唐代の建造物として残っているのは先の小雁塔とここだけだという。

 

 大雁塔は、よく知られているように、唐の高僧・玄奘三蔵が、情願19年(645)のインドからの帰国の際に、持ち帰った経典(657部)や仏舎利・仏像などを保存するために建てられた仏塔で(652年、皇帝高宗による)、玄奘が造成を指揮した当時は5層であったが、増改築を経て現在は7層64mの規模になっている。名前の由来は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことにあるという(ネット記事)。

 

(図1、大慈恩寺境内図、赤点線が歩いて行ったルート)

 大雁塔のある大慈恩寺は唐暦・貞観22年(648)、唐4代皇帝の高宗が皇太子時代に亡き母の追善のために建立した寺で、寺名は「慈母の恩」に由来すると言う。唐代には子院10数院、正式の僧だけで300名も擁する皇室の帰依を受けた国家的寺院であった。

 インドから645年に帰国した玄奘は、この寺の上座となり、寺内の北西の翻経院で持ち帰った仏典の漢訳事業に従事した。玄奘の訳経活動は、664年の死没直前までの19年間に及び、合わせて75部1335巻の経典が漢訳された(ネット記事)。漢訳経典の代表的なものには持ち帰った経典の中核となる『大般若経』(600巻)やその真髄とされる『般若心経』があり、また著作には、有名なインドへの旅行記『大唐西域記』(646年)や玄奘が最も思索した唯識論の『成唯識論』(659年)などがあった(吉村誠「玄奘三蔵はるかなる度」『仏教文化55号』)

 

〈大慈恩寺境内へ〉

 大雁塔の西側の駐車場でバスを降りた私たちは、大雁塔の側面が大きく見える中、ガイドの馬さんに従ってまず西側の広場への階段を下りて行った。そこでは西安の市民の人たちが踊りの練習をしていたり、中には大きな箒のような筆で、水を使って露面に漢詩(?)を書いたりしていた。書のパフォーマンスはここでしか見なかったが、趣味でやっているようで「中国らしい」と思ったものの一つである。

 

 広場を右手に曲がって進んで行くと、左側に寺の正面の大門があった。「大門「と言われるほど大きくはなかったが、彩色が鮮やかで、屋根の垂木の下には「大慈恩寺」の扁額がかかっていた。

 大門から境内に入ると、寺のガイドさんが待っていて、私たちを大雁塔の方へ案内してくれた。歩きながらの説明によると、大雁塔以外の建物は明・清時代のものがほとんどで、大雄宝殿までの参道の両脇にあった鐘楼や太鼓楼はその時期のものであるということであった。また、釈迦如来を本尊とする大雄宝殿は2008年に建て直されたものだとも言っていた。その前まで来ると若い女性が跪いて熱心にお祈りしていた。

〈大雁塔へ〉

 時間の関係もあって大雄宝殿には入らなかったが、その脇を抜けていくと今まで上部しか見えていなかった大雁塔が基壇から聳えるように建っていた。大門から見ても大雄宝殿の屋根幅とさほど違わない幅があったが、真下から見上げると「これは大きいな」と感嘆する規模だった。レンガ作りであることは小雁塔と同じであるが、64mの高さから来る威圧感は小雁塔とは随分違っていた。基壇部上の各層の四面にはU字型の小さな窓だけが開かれていた。

 お金を払えば上まで登れるということで、ツアーの方たちの何人かは登っていったが、私は高所恐怖症なので、それは遠慮してしまった。ただ後で円仁も登ったという話ををガイドの方から聞いて(前回紹介した『入唐求法巡礼行記』に出て来る)、無理しても登ればよかったと後悔した。

 

(下から見上げる息子)

(ガイダンスルーム「玄奘三蔵院?」)

 

〈玄奘三蔵の旅〉

 大雁塔が見終わり、塔から下りて来る人たちを待って、次に私たちは傍のガイダンスルームに入った。建物の名称は忘れてしまったが(「玄奘三蔵院」?)、主に玄奘三蔵を紹介する展示室で、インドへの旅行記『大唐西域記』に沿った展示がなされていた。

 ガイダンスルームを見終わり、大門から寺の外に出たが、物売りで賑わう門前の広場にはかなり大きめな玄奘像が建っていた。錫杖を持ち、やや前かがみに歩こうとしている若き姿であったが、私には玄奘の生きる姿勢を表現しているようにも感じられた。

 

よく知られているように玄奘は貞観3年(629)27歳の時国禁を破ってインドへの旅に出立した。その旅の過程と困難さは玄奘の伝記の『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』(『慈恩伝』、慧立本・彦悰箋)』に記され、後代には『西遊記』にもなるが、実は旅立ちの動機の一つは「唯識」思想の究明であったという。

 「唯識」思想とは大乗仏教にあるもので、「あらゆる存在はただ心(意識)の現われである」とみる思想で、当時の中国仏教界ではとくに広まっていた。ただ、その思想の中で、意識の奥底にある根本心理の「アーラヤ識」(阿頼耶識)の本質について議論が分かれ、玄奘は、その本質を知るには中国には未伝来の唯識の百科全書・『瑜伽師地論』を直接学ばなければならないと考えていた。それがインドへ赴こうとした理由の一つであった(以上、吉村前掲論文より)

 唯識論については帰国後間もない貞観22年(648)にその『瑜伽師地論』の翻訳を完成させ、後に自己の唯識論である『成唯識論』(659年)も著すことになる。

 

〈『大唐西域記』〉

 玄奘といえば何と言っても西域・インドの様子を記した『大唐西域記』であるが、これは帰国直後に太宗皇帝の求めで著したもので、旅行記と言うよりは地誌である。玄奘はナーランダの僧院で5年間学んだが、ナーランダ以外にも仏跡を訪ねてインド各地を歩いた。西域の部分も含めそれを口述して弟子にまとめさせたものである。

 

 私も20代の時に2度、50代に1度インドを旅したことがあった。21歳の最初の旅の時は、玄奘のように明確なものがあったわけではなく、ただ行って見たいと思っただけだったが、玄奘が歩いた仏跡の中でブッダガヤ(ブッダ悟りの地)、サールナート(ブッダ最初の説法の地)、ヴァラナシ(バラモン教の聖地)、アジャンタ石窟寺院(5・6世紀の仏教遺跡)は重なっていて興味深い。

 

 7世紀の旅人・玄奘はそれらの地をどのように見ていたのであろうか。今回、興味を持って初めて読んでみた。長くなるが、ヴァラナシやサールナートの箇所については以下ようにあった。まずヴァラナシである。

 

婆羅□斯(ヴァラナシ)国は周囲四千里ある。国の大都城は西は□伽(ガンジス)河に臨んでおり、長さ十八、九里、広さ五、六里ある。民家は櫛の歯のごとくにならび、住民は盛大に、家ごとに巨万の富を蓄え、部屋ごとに珍しい品物で満ちている。(中略)多くは外道を信じ、少数の者が仏法を敬っている。伽藍は三十余ヵ所、僧徒は三千余人おり、みな小乗の正量部の法を学んでいる。天祠は百余ヵ所、外道は一万余人おり、みな大自在天を信奉しており、或るものは断髪しており、或るものは髻を高く結う。露形で服を着けぬもの、身に灰を塗るものなど。苦行に精励し、生死の境より出離することを求めている

(『大唐西域記』(「中国古典文学大系」22、水谷真成訳。平凡社)、以下同)

 

(ヴァラナシのガート風景。人々がガンジス河で沐浴しているが、背後には寺院やかつての王侯・有力者の屋敷などが立ち並んでいる)

 

 「ヴァラナシの民家は櫛の歯のごとくに並び」とはガンジス川に沿って現在のガート(沐浴場所)のように点在していたのだろう。各沐浴場の周りに人家が存在していたのかもしれない。「住民は盛大に、家ごとに巨万の富を蓄え」とは、今と同じくガンジス川の交通の要衝での繁栄を示している。

 また興味深いのは宗教で、仏教徒は少数で、多くは「外道」(バラモン教、現在のヒンズー教)の「大自在天」(シヴァ神)を信奉し、その行者の様であろうか、「断髪」「髻を高く結う」「露形(裸)」「身に灰を塗る」「苦行に精励し、生死の境より出離することを求めている」という記述である。

 上のような行者が集まり、玄奘には強い印象として残ったようである。もうこの時期からヴァラナシはバラモン教(ヒンズー教)の聖地として賑わいを見せていたのだ。仏法を唯一とする現状から見ればそれは「外道」の信仰であり、「苦行」で「出離」(悟る)ことなど邪教の行為に見えていたことが窺えるが、しかしこの姿は現在のヴァラナシでも日常的な風景であり、仏教徒や仏教寺院が皆無の現状から見れば、バラモン教(ヒンズー教)の根強さはインド社会の文化的本質を示しているのだと感じた。

(ヴァラナシのヒンズー寺院(黄金寺院)の前で。背後はヒンズー神。真っ赤に塗られ異様である。私21歳の時。玄奘が「外道」と表現したのも理解できる)

(ヴァラナシのガートで。ガンジス河で早朝に修行するヒンズー僧から額に@@を塗ってもらう。私51歳の時)

(ヒンズー教の行者(サドゥー)と一緒に。玄奘が見た「苦行に精励し」た行者の姿はこのようなものであった。私51歳)

 

 つぎにサールナートである。サールナートはヴァラナシのすぐそばで、ブッダが悟った教えをそこの鹿野苑で初めて説いた初転法輪の地、仏教が初めて言葉になった地である。

 

「婆羅□(ガンジス)河より東北へ行くこと十余里で鹿野伽藍(サールナート)に至る。区界は八つに分かれ、垣を連ねて周囲に廻らしている。幾層にもした軒、何層にもした閣は、その麗しき構想を極めたものである。僧徒は一千五百人。皆小乗の正量部の教えを学んでいる。大きな垣の中に精舎の高さ二百余尺のものがある。上には黄金で彫刻し菴没羅果が作ってある。(中略)精舎の西南に石造の卒賭波(ストゥーパ)がある。無憂王が建てたものである。基壇は崩れ傾いているが、今も百尺(30m)に余るほどである。前には石柱の高さ七十余尺のものが建っている。(中略)如来が正覚を成せられ(悟りを開く)、初めて法輪を転じられた(教えを説かれた)処である。」

(中略、玄奘はこのあとブッダの初転法輪の伝説を述べる)

「如来(ブッダ)が近づくにつて、威厳は物を動かすほどで、五人は制止も忘れ敬礼し出迎え挨拶し、つきそうこと規則通りであった。如来は諄々と指導し五人に至妙の道理を示し、雨安居が終わるころ、五人は悟りを得た

 

 この時のサールナートは「幾層にもした軒、何層にもした閣」と豪壮な仏閣が立ち並び、「小乗の正量部を教え」「僧徒は一千五百人」と小乗仏教の学問所・僧院で多くの学僧を抱えて繫栄していた。

 玄奘が印象に残ったものの一つに精舎の西南にある「石造の卒賭波(ストゥーパ)」があり、無憂王(アショーカ王、前3世紀)が建てた者と記している。この時基壇は崩れて傾いていたが、その時でも百尺(30m)以上あったと記している。

(サールナートの僧院跡。背後にダメーク・ストゥーパが見える)

(ダメーク・ストゥーパの前で。私51歳の時)

(背後の僧院跡を前にして、巡礼に来ていたチベット人家族と)

(鹿野苑の入り口手前のチャウーンカウンディ・ストゥーパ。地元の高校生と。このストゥーパの場所で最初の弟子となる5人の修行者がブッダを出迎えた)

 

 私が行ったときの鹿野苑はレンガ造りの僧院建物の基部が残るのみで、玄奘の時の面影は全く残っていなかった。唯一の建物は玄奘がアショーカ王が建てたとする「石造の卒賭波(ストゥーパ)」=ダメークストゥーパのみであった。しかしこれは玄奘の赴く前の6世紀に作り変えられたもので、玄奘はそれを見ていたのである。現状は傾きはあったが、基部が崩れておらずその後に修復・整備を受けたものであろう。高さは44m、下部の直径は26mあり、ほぼ玄奘が「百尺余」と記した時と同じままである。

 しかし多くの僧院・僧徒を抱えて繁栄していた玄奘の時代は、輪足が行った時には過去のものとなっていた。近くのヴァラナシのヒンズー教の聖地としての発展、仏教の衰退と一体の関係に在ったのである。

 

 以上、長くなったが大雁塔を訪ねた経緯と、玄奘の『大唐西域記』から玄奘が見たインド、とくにヴァラナシとサールナートの様子と私の行った時の同地の様子を述べてみた。今回長安の大雁塔・大慈恩寺を訪ね、玄奘のインドでの足跡を調べてみようと思い、昔のインド旅行を回顧し、玄奘の実見と比較しながら感想を述べてみた。玄奘の志の旅と私の物見遊山の旅は並べることも憚れるが、今回の旅の記録に資するということので書いてみた。

 ほかに玄奘の訪ねた場所で、最初の旅でのブッダの悟りの地であるブッダガヤで摂った写真や、二度目の旅で中部インドのアジャンター石窟寺院での写真もあり、載せておきたい。

(ブッダガヤで。数珠売り少年ゴータマと。21歳のとき)

(アジャンターの石窟寺院を見上げる私(左)。26歳の時)

 

 

(続く)