(西安の旅、その6)

 

 旅も3日目、西安の観光は2日目ということで、今日の予定のまず最初は「小雁塔」の見学、とくにその境内にある西安博物院である。

 昨夜の鐘鼓楼見学からは9時ごろに戻り、今朝は5時半には目が覚めた。7時半には出発と言うことで、6時半過ぎにはレストランで昨日同様に朝がゆの朝食を摂り、バスが出発するまでの30分間ほど息子と二人で、ホテルの前の東大街を昨日とは逆の東側へ散歩してみた。

 

〈朝のバスの車窓から〉

(地図1、西安地図)

 私たちのバスは7時半過ぎにはホテルを出発して東大街の通りをまず東へ向かい、つぎに和平路を南に折れて、和平門から城外へ出た(地図1)。和平門の手前の広場では市民の人たち(ほとんどが女性)が集まってラジオ体操?のようなものをやっていた。北京でも一度同じような光景を見かけたことがあったが、中国では早朝、よく太極拳をやっている風景は見かける。しかしこれはそうではないようだ。

 

 和平門のところから西に折れて城壁に沿ってバスは走り、中央の門である南門の手前に来た時にガイドの馬さんが、遣唐使で著名な「吉備真備」の記念碑が右手にあると説明してくれた(地図1)。馬さんの話によると、この碑は1986年に吉備真備の生まれ故郷の岡山市の寄付で作られたそうで、昨日訪れた阿倍仲麻呂記念碑や空海の青龍寺の再建などと同様、1972年の日中国交正常化以後の日中友好のシンボルとして創建されたということであった。かつてはこういう様々なレベルでの友好への努力があったのになと、今この文章を書いていて、最近の日中政府間の外交軋轢を想った。

 

 間もなく私たちのバスは小雁塔の見える大薦福寺に到着した。最初に行く西安博物院はその境内の中にあった。

 

〈西安博物院に入る〉

 西安博物院は西安市が管轄する博物館で、メインは唐の都・長安の展示である。2007年にオープンした比較的新しい博物館であり、私たちが行った当時はまだ間もない時期で、現在の展示形態とは少し異なっていたようである。ツアーのため1時間程度しか見学時間はなく、私たちは馬さんの案内で主に漢・唐文化展示室の唐三彩などの俑を見て廻った。

 

 俑(よう)とは死者の墓に副葬する人形のことで、昨日行った兵馬俑もそれである。兵馬俑のものは等身大であるが、そのほかはいずれもミニチュアである。陶製のものがよく知られているが、木製のものなどもある。

 

(※赤印の王朝は以下の展示品に出て来る王朝名)

 

 唐三彩(とうさんさい)は唐代(618~907)に作られた鉛釉を施した陶器で、釉薬の色は非常に多く、クリーム色、赤褐色、薄緑、深緑、藍色、紫などがある。中でもクリーム色・緑・白の三色、あるいは緑・赤褐色・藍の三色の組み合わせを主としていることから三彩と称されている(ネット記事)。

 

〈唐代の俑〉

 まず1階の漢・唐文化展示室で最初に見たのが下の唐三彩の俑である。中央が武官で右側が文官の俑である。有力な官人の墓からでも出たものなのであろうか。

(右から唐三彩・文官俑、唐三彩・武官俑。漢・唐文化展示室、以下同。)

 

 つぎには、釉薬をかけたものではなく彩色だけの俑があった(実際は色が剥落して素焼きに見える)。下の写真は唐代のもので、富裕な家に仕える仕女の俑である。ふっくらとした顔立ちは、唐文化の影響を受けた正倉院の鳥毛立女屏風の女性像と同じであるが、当時の貧しい社会では、女性の美は豊満であることが条件であったからとよく言われる。

(唐彩绘・仕女俑)

(当時の女性画像)

 

 次に見たのが唐三彩の「騰空騎馬」である。これは博物館の看板展示品の一つで、胡人(中央アジアのソグド人)の少年が疾走する馬にまたがっている像である。高さは38cm、全長は52cmの小さいものだが、確かに躍動感がある。 1966年に西安市の製薬工場の唐墓から発掘されたものだという。

(唐三彩・騰空馬俑)

 

 次に見たのがやはり胡人のラクダに乗る俑である。関連するものが一つのスペースに横長に展示してあったが、釉のかかっているものは唐三彩である。

 

 胡人とは中央アジアのサマルカンドなどを中心に東西交易に従事した商業・交易の民で、ペルシア系の人々である。唐の時代には、キャラバンなどで長安を訪れて深い関係を結び、商人のみでなく、安禄山のように軍人や役人となるものもいた。ラクダに乗っている像があるのは、本来の交易の民であることを象徴的に示している。

(中央の素焼きのラクダが唐彩絵・小憩騎駝俑)

(上の写真の両脇にある唐三彩・胡人俑(右)と唐彩絵・駱騎俑(左)

 

 下の俑は別の展示箇所だったが、同じくラクダに乗る胡人の唐三彩の俑である。

(唐三彩、ラクダに乗る胡人の駱騎俑)

 

 下のものも別の箇所の展示だったが、唐代の彩色の俑で、官人である。右の俑は胸をそらし、顔は八の字ひげを蓄えて尊大であるが、どこかユーモラスである。左の俑はあごひげを蓄えているので胡人の官人であろうか。

(唐彩絵・官人俑)

 

 つぎの展示では唐三彩の武人(中央)と同じ唐三彩の火焔形羽翼を持つ明器(左)があったが、武人俑の顔が目を見開き、口角を引き上げてあまりに怖かった。お墓に悪霊が入ってこないように入れたのだ、とガイドの馬さんは説明していた。しかしこの怖い顔、どこかで見た顔だな。そうだ、獅子舞の獅子の顔だ。。

(唐三彩・武人俑(中央)と肩部に装饰的火焰形羽翼を持つ唐三彩・明器(左))

(右は上の獅子舞の顔のような武人俑、左はそれを眺める息子)

 

〈唐代以外の墓や俑〉

 下の左側は、北周の時代(556~581)の「史君墓石椁」という墓に納めた家型石棺で、死後の暮らしのために作られたと馬さんは説明していた。右側はそれとは別の墓誌で、北魏の時代のものである。

 

 下の左は古い前漢時代(前206~後8)の彩色された武人俑。右はそれを見ている息子。

 

 下の左は隋の時代(581~618)の黄褐彩の武人俑。唐三彩のような多色ではなく、黄褐色のみの俑である。右は北魏時代(386~535)の彩絵の武人俑。顔の表情がユーモラスで(とくに右)、今見ると家の居間に飾りたいと思うほどのものである。

 

 

 下は前漢時代(前206~後8)のひざまずく男の彩絵俑。永遠に亡き主人にひざまずかなければならないのかと思うと、何かもの哀しい。

 

 下は後代の明時代(1368~1644)の彩絵の「氈帽俑」といわれるもの。色が鮮やかに残っている。氈帽とはフェルト帽のことらしい.。数が多く結構目立つ展示だった。

(明代の彩絵・氈帽俑)


 青銅器などの展示もあった。左は前漢時代の祭器の鼎(かなえ)。右は同じ前漢時代の金貨。        

 

〈仏像コーナーへ〉

 つぎに仏像のコーナーに入った。北魏などの古い時代の仏像や仏塔などが展示してあったが、もう集合時間が迫っていて、ほとんど駆け足で通り過ぎる様であった。

(北魏時代?の仏塔とレリーフ状の仏像)

 

 興味深かったのが下の北周時代(556~581)の仏頭であった。2つあったが、そのうち一つは、瓜二つと思えるほど奈良・桜井市の山田寺仏頭(現興福寺蔵)とよく似たものであった。

 

(もう一つの北周の仏頭。下の山田寺仏頭とよく似ている)

 

 

 奈良・山田寺仏頭(現興福寺蔵)は7世紀後半の白鳳文化の優品として高校の教科書にも載るほどよく知られている。山田寺は乙巳の変(大化の改新、645)で中大兄皇子側についた蘇我氏分家の石川麻呂が7世紀半ばに創建した寺院であるが、改新前の飛鳥文化を代表する蘇我本宗家氏寺・飛鳥寺の飛鳥大仏(奈良県明日香村、7世紀前半)が北魏(385~535)の様式であるのに対し、山田寺仏頭はこのように北周(556~581)の仏像とそっくりなのである。

 これは私にとっては大きな驚きであった。仏頭自体は天武天皇14年(685)に石川麻呂の追福のため講堂本尊として造立された薬師如来像の頭部なのであるが、造立の時代差だけではなく、かつての北魏様式の蘇我本宗家を否定して、あえてこの北周様式を導入したのではないかと、そのようなことすら夢想してしまった。

 

 西安博物館の見学はツアーのため1時間程度の短い時間であったが、いずれも素晴らしい展示で、この旅でも印象深いものの一つであった。館外に出た私たちは、つぎに同じ境内にある隣の小雁塔の見学に歩いて向かった。

 

(続く)