(古河公方の成立、その3)

 

 2 戦国期「東都」古河の歴史的前提

 

 つぎに、後の「東都」古河に結果する、関東における古河の経済的中心性の事実を、古代の蝦夷戦争や平将門の乱など同地の歴史的前提の中から考察してみる。

 

(1)律令国家の蝦夷戦争における古河地方の役割

 

 奈良時代末期、古代律令国家による蝦夷戦争で史上に登場した古河地方(下総国猿嶋郡)の人物に、鎮守副将軍「安倍猿嶋臣墨縄」なる武人がいる。この人物は、後述するように、古河公方重臣の一人簗田氏が南北朝末期に入部する地=水海(みずうみ、古河市水海)を本拠とする在地首長日下部氏一族の出身であった。古河地方の地政学的特質を象徴する人物である。(以下の説明は自著『平将門の乱と蝦夷戦争』(高志書院、2023年)による)。

 

 墨縄については、正史『続日本紀』等に次のような活動が記されている。

 

〔史料1〕『続日本紀』宝亀四年二月八日条

 

  癸丑、下総国猿嶋郡人従八位上日下部浄人賜姓安倍猿嶋臣

 

〔史料2〕『続日本紀』天応元年九月二十二日条

 

  丁丑、詔授従五位上紀朝臣古佐美従四位下勲四等、(中略)ア)正六位上阿倍猿嶋

  墨縄外従五位下勲五等、入間宿禰広成外従五位下、イ)並賞征夷之労也

 

 宝亀4年(773)に「(下総国)猿嶋郡人」の日下部浄人に「安倍猿嶋臣」姓を与え(史料1)、八年後の天応元年(781)にはその一族出身の「阿倍(安倍)猿嶋墨縄」に「征夷之労」(蝦夷戦争への功績)で地方貴族の位階、従五位下を与えている(史料2、下線部ア・イ)

 

 当時の古代律令国家の東北経営の方針は、その地に住する化外の民・蝦夷を国家に服属させ、律令制的国郡を設置することにあったが、奈良末期の光仁朝中央政府は、宝亀5年(774)7月の海道蝦夷の叛乱を契機に、それまでの内属化方針を転換して軍事征服を基調とする方針に転換する。その特徴は、数万~十数万の大規模な征討軍を派遣して徹底した討滅戦を展開し(=三十八年戦争)、東国に関連しては、「坂東八カ国」と称された東国を戦争遂行のための兵站基地にして、各国から大量の軍粮・武器など軍需物資を徴発し陸奥までの輸送を担わせていたことにあった。この軍事征服段階の桓武朝第一次征討で、征討軍の将として指揮を執ったのが陸奥鎮守府の副将軍となっていた水海出身の「安倍猿嶋臣墨縄」である。

 

 宝亀4年の日下部氏への改賜姓の理由、また安倍墨縄の鎮官登用の本来的理由とは一体何であろうか。この場合、最も重要なポイントとなるのは、氏族の所在地=水海と、それと対応する古河の問題である。

 

(図1、水海の位置、常陸川水系の最奥の港津。日下部沼の傍、古代猿島郡衙)

(図2、関東の二大河川水系を跨ぐ位置に古河地方が存在)

(図2、両水系の古河と水海の位置。奥大道によって結ばれる。古河に川戸台遺跡、水海に羽黒遺跡が存在。東北への軍需物資がこの両地点を介在させて水運で輸送される。水海は猿島郡衙の所在地でもある)

 

 墨縄の出身地についてはほとんど研究されてこなかった。筆者はこの問題を検討し、「日下部」地名や遺物・遺構から総合して茨城県古河市の旧釈迦沼(別名日下部沼)を挟む水海から前林一帯が最も可能性が高いこと(図2)、また水海には「コオリノヤマ」地名や郡家衙関連の遺構・遺物等が見出せる(図3)ことから、安倍墨縄の活動期の水海は猿嶋郡家でもあり、『続日本紀』神護景雲3年(769)八月己酉条の「猿嶋郡神火事件」で日下部氏(安倍氏)により移転された新郡家の可能性が高いこと、日下部氏(安倍氏)はその段階の猿嶋郡司であること、また水海は戦国期史料に「みつ」「ミツミ」と記されることから、語源的には古代の公的港津である「御津」(みつ)でもあり、とくに地理的位置から常陸川水系の最奥の港津であったことなどを指摘した。そして宝亀4年の日下部氏への改賜姓、そして安倍墨縄の鎮官登用の本来的理由とは、旧利根川水系(渡良瀬川)に最も近接する本貫地水海の性格故に、「三十八年戦争」の開始に伴う、坂東諸国からの膨大な軍需物資の徴発・輸送等に二大河川水系を跨いで水上交通上大きな役割が期待された故であろうと指摘した(図1)

 

(図3、水海の小字図。そこに「凍ノ山」地名が残り、「コオリ」地名から猿島郡衙(郡役所)と推測される)

(日下部沼遠景)

 また水海に対応する旧利根川水系(渡良瀬川)の港津としては何よりも古河が想定できるとした。古河は水海同様、古代猿嶋郡に位置していたと考えられるが、万葉集東歌に「許我の渡の韓楫の……」と出る「渡」=渡船場であり、一方で「韓楫」を有する大型船舶の就航する大規模港津であった。

 平成22年には渡良瀬川に面する古代製鉄遺跡・川戸台遺跡(古河市牧野地)から9世紀代半ばから後半を中心とする膨大な量の鉄鍋鋳型が発見され(図4・5・6)、鉄鍋はその形態から、蝦夷戦争で軍団兵士が携帯したものであり(図7)、遺物の年代観から出羽元慶の乱(878~879)での上野・下野兵など関東兵の備品関連遺物と推測した。桁外れの量の製品を鋳造する遺跡の立地からは、原料・製品の搬入・搬出の上で相当規模の古代港津が古河・川戸台付近に存在したことは間違いなく、この「川戸台」こそが万葉集「許我の渡」であった可能性が考えられるとした。

 

 この港津機能は直前の安倍墨縄段階においても同様であったことは間違いなく、水海と古河は古代関東において共に古代律令国家が介在する、物流上とくに重要な港津であったことが指摘できる。前述のように両地は関東の二大河川水系を短い陸路(のちの奥大道)で結ぶ関係にあり、そこに軍需物資生産・徴発・輸送で介在したのが、猿嶋郡司でもあった猿嶋安倍氏の可能性は極めて高いのである。

(図4、古河・川戸台遺跡の位置、かつては渡良瀬川の港に面する場所に立地)

(図5、川戸台遺跡の調査区)

(図6、川戸台遺跡の遺物、大量の蝦夷戦争従軍兵士携帯の鉄鍋鋳型が出土)

(図7、軍団兵士と装備品。10人ごとに鉄鍋2個の装備が義務附けられていた)

 

 このように、古代において、古河・水海の地は、律令国家が東国内部で軍需物資輸送を企図する場合最も着目した場であり、陸奥との関係を有する点でもたえず国家的掌握の対象となる特別の場であった。

 享徳の乱に際して鎌倉公方成氏が移座した古河や、それ以前の南北朝末期、鎌倉府奉公衆の一人簗田氏が移住した水海とは、二つの内海・二大河川水系の近接地の中でも、地政学的には東国物流上きわめて重要で、国家掌握の対象となるほどの特殊な場であったのである。

 

(続く)