(古河公方の成立、その2)

 

 1 古河地方の地政学的特性


 1990年代に市村高男氏・鈴木哲雄氏らによって提唱された「東国の二つの内海」論(武総の内海・常総の内海)は、中世東国の地域構造・地域社会解明の観点から多岐にわたり有効性を示してきた(市村1992、鈴木1994)。この視角は、そこに注ぐ関東の二大河川水系(旧利根川水系・常陸川水系)(図1)へも及び、近世初頭に江戸幕府によって利根川東遷事業で両河川が古河近辺で一体化され、近世的交通・物流体系が創出されるまでは、東国社会の交通・物流のあり方のみならず、社会の質を決定的に規定する重要な地政学的要件であった。

 (図1、関東の2つの内海(江戸内海=武総の内海、香取海=常総の内海)と2大河川水系(旧利根川水系、常陸川水系))

(図2、「繋ぎの地域」市村2007)

 

(図3、古墳石材の分布。旧利根川中上流=角閃石安安山岩、常陸川水系=黒雲母片岩が分布する)

 

 この内にあって享徳の乱の時期の古河地方は如何なる様相を有していたか。


 市村氏は、古河を含めた両水系間とその周辺地域を、水路・陸路が交差する東国の回廊地域で、政治・経済・文化の面にわたって二つの内海とその外縁地域を結合させる「繋ぎの地域」と評する(市村2007、図2)

 筆者はとくに経済的特質に限定して、古河が地理的に関東の二大河川水系の近接地の一つであることから、流通構造上、二つの内海・二大河川水系を基礎とする関東東西の地域経済圏や、外洋から二つの内海へ入る遠隔地からの広域経済圏を連結する役割があったと指摘した(内山2002)。事実、古代・中世全体に眼を広げれば、主に水上交通に依存したと見られる考古遺物の分布は、例えば古墳石材(内山2023、図3)・板碑・石塔石材や在地系土器など地廻り商品の場合、古河地方は東西分布圏のほぼ境界である一方(秋池2005、浅野1991)、国際的流通品である一括埋納銭の分布ではとくに稠密な地域であった(内山1998)。内海・河川を介した異なる地域経済圏や広域経済圏を結節・調整する場の一つであったことが考古資料からも予想できる。

(図4、古河公方領国、二大河川水系を跨ぐ位置にある、市村1986)

           

(図5、古河公方領国の家臣配置。旧利根川水系=古河(公方家)、栗橋(野田氏)。常陸川水系=水海(簗田氏諸流)、関宿(簗田氏嫡流)

 

 享徳の乱開始での公方移座に伴う家臣団(奉公衆)の再配置でも、その骨格は、本城古河城に拠る公方成氏のもと、公方権力の両翼と評価される重臣簗田氏・野田氏をそれぞれ支城主として関宿城・水海城、栗橋城に配するものであった(市村1986)。古河・栗橋は旧利根川水系の、関宿・水海は常陸川水系最奥部の重要港湾都市であり、近接するこれら四都市はその間を奥大道によって緊密に結びつく地理的関係にあった(図5)

 この家臣団再配置は、公方権力の領国支配が二つの水系の交差地域に特に重点を置いていたこと、そして支城主支配を介してこの四都市の港湾機能や商人・流通業者、さらにそれらに拠る両水系間の物流の掌握を重視していたことを推測させる。 

 戦国末期の史料ではあるが、古河の商人で公方被官でもある福田氏が常総の内海に面する下総布川の領主豊嶋頼継から過所を得て商業・交易活動を行う一方(「福田文書」古一二四〇)、旧利根川水系・渡良瀬川沿いの下野足利小俣の渋川義昌からも官途状を得ている事実(同、古一四七二)、また関宿の商人で簗田氏(のち後北条氏)被官の会田氏が佐倉~関宿・栗橋~葛西間の両水系に跨がり水上交易活動を行っている事実(「会田文書」総二九九)、また古河福田氏は公方義氏から「京座司」(京銭鋳造座頭)に任命され、私鋳銭鋳造に当たっていた(「福田文書」古一一三五)。これは、中世後期の商品経済発達のもと、異なる両水系経済圏の活発な交差を反映して、それに介在しようとする公方権力のあり方を垣間見せる。


 以上のように古河地方は、戦国期には流通構造的には二つの内海・河川水系を基礎とする関東東西の地域経済圏や、外洋から内海へと入る遠隔地域からの広域経済圏を連結・調整する場の一つであった。そこに古河公方政権が存在していた。

     

(続く)