(イタリアの旅、その9)
旅も5日目となり、朝早く、フィレンツェから次の目的地シエナへ向かった。
シエナはフィレンツェから近く、60キロほどの地点で、同じトスカーナ州に位置している。高速道路を使って1時間半ほどの距離である。息子はほとんどの時間バスの中で眠っていた。
シエナは現在は小さい町で人口は5万人程度である。日本ならば、県庁などのある地方の中心都市にも当たらない規模である。
しかしシエナは中世にはシエナ共和国と呼ばれる都市国家だった。
イタリアの歴史は都市の歴史と言われるが、それは古代ローマ帝国崩壊後に各都市を中心と した分裂状態が続き、近代に至るまで統一国 家が現れなかったためである。
都市国家の中で特に有力だったのはローマ、ナポリ、 ミラノ、フィレンツェ、ヴェネチアの5つであるが(地図1)、そこには14世紀半ばまではフィレンツェの 強力なライバルであったシエナも入っていた。すでに金融業の一大中心地せあったシエナは、1260年のモンタペ ルティの戦いでフィレンツェを破り、 その後は長期間共和政治を保って全盛期を迎えた。しかし、14世紀半ばのペストの流行で致命的な打撃を受けて以後衰退するという歴史を辿るのである。
(地図1、15世紀後半のイタリア)
(地図2、黒い点線が歩いて行ったルート)
私たちのバスは9時過ぎにはシエナに到着し、16世紀半ばにシエナを支配・管轄した「メディチ家の要塞」の駐車場で私たちを降ろした。私たちは、そこからまず最初にサン・ドミニコ教会に向かって歩いて行った。
〈サン・ドミニコ教会〉
13世紀半ばに出来たこの教会は、カトリック・ドミニコ会の修道院で、財産を持たず清貧を宗とする「托鉢修道院」の一つとして始まった。また今はヨーロッパの守護聖人の一人ともなっている聖カテリーナとの深い関係がある。カテリーナはこのシエナの生まれで、ドミニコ会の在俗修道女であった。死後その頭骨と親指が聖遺物としてここの「聖カタリナの祭壇」に安置され、多くの巡礼者がそれを目的に訪れる。ただ時間を取ることのできない私たちは、教会の背後から内部に入って簡単な説明を受けただけだった。
(地図3、見晴場所1と聖女カタリーナの生家)
丘の上の教会から坂を下って行くと、見晴らしの良い場所となり(見晴場所1)、右手にシエナの街が一望できた。右にはこれから行くシエナ大聖堂の塔が見え、左奥遠くにはカンポ広場のマンジャの塔が見えた。この歴史地区は世界遺産に登録されているが、中世も斯くやと思わせる赤レンガ色の屋根がその間に広がり、皆さん急いでカメラを構えていた。シエナ観光のビューポイントの一つである。
さらに坂を下って右手に曲がると、そこは聖カテリーナの生家だった。これも時間の関係で中には入らず、ガイドさんから説明を聞くだけだった。
先にも書いたように、カテリーナは若くしてドミニコ会の在俗修道女となり、33年の生涯を通じて慈善活動や政治的調停に尽力した。とくに1376年、教皇庁をフランスのアヴィニョンからローマに戻すことに尽力したことで知られている。
〈ガルッツァ通り〉
カテリーナの生家からはガルッツァ通りの急坂を下って行った。
(地図4、ガルッツァ通り)
シエナは3つの丘とその間の低地からなっていて、上り下りの多い「坂の街」と言われる。ガルッツァ通りはその典型で(地図4)、途中まで急坂を下り、そこからドゥオーモ(大聖堂)方面にまた上り返す通りだった。カテリーナの生家から見ると下の街の建物の屋根が目の高さにあった
ガルッツァ通りから見える風景はまさに中世であった。静謐でこじんまりとした街並みは「トスカーナの宝石」と称されるほどの美しさであるが、「シエナ色」と言われる赤茶色の屋根と古色蒼然とした建物は、間違って当時にタイムスリップしたのでは、と思わせるものがあった。法律で通りの家々はその景観を保つように規制されているそうだが、現代人の我々が歩いている方が不自然で、中世の街並みで暮らしていた商人・職人やそのおかみさんたちが石畳の通りへひょっこり顔を出すのではないかという、そういう現実感があった。
下りきった十字路の手前でガイドさんから簡単な説明を受けたが、その一つは建物から外に掛けられている旗であった。この地区の名である「ガチョウ」を描いた旗で、地区の旗=コントラーダの一つであるということだった。
説明を聞いた後、今度は上り返す急登になった。先には家と家の間をつなぐアーチ状の建造物が見えた。ツアーの皆さん、結構息が上がっていた。
ガルッツァ通りを上りきると最後のアーチがあった。これは大変美しいものであったが、さらにその先には城門の入り口のようなものがあり、そこには前のコントラーダとは異なる旗が掲げられていた。これは木々が集まった形をシンボライズしたもので、あとで調べてみると「森のコントラーダ」と呼ばれるものであった。ここからは地区が異なる様である。私たちは門へは進まず、右手に折れていった。
〈見晴場所2〉
(地図5、見晴場所2)
右手に折れてすぐに、これもまた良いビューポイントにやって来た(見晴場所2)。添乗員さんに促されて右手を見ると、そこはまたシエナ色の中世の屋根瓦が見え、遠くには最初に行ったサン・ドミニコ教会の赤レンガの建物が見えていた。ガイドさんは「どうですか、この景色は」と自慢げに言っていたが、皆さん、素晴らしい景色にカメラを構えて撮影をするばかりであった。ここも下を通る自動車があまりに不自然であった。
〈ドゥオーモ(大聖堂)まで〉
(地図6、洗礼堂とドゥオーモ(大聖堂))
見晴場所から少し進むと、白い大理石と黒い線の縞模様から成る建物があった。私たちは洗礼堂の正面に来ていた。ドゥオーモ付属の洗礼堂ということで、左手の階段
を上っていくとドゥオーモに行きつくということであった。
手前にはテラスがあり椅子とテーブルが並べてあった。前には車が駐車しており、店のオジサンがジャガイモを下ろしていたが、私たちを見かけると「チャオ」と陽気に声をかけてくれた。
私たちは洗礼堂の右側へ続く通りに入り、さらに進んでいくと、右手には古色然とした建物が続き、ここもまた中世の雰囲気を強く感じさせるところであった。
その通りが突き当たったところの建物の上の方には、小さくモルタル製のコントラーダの印が打ち付けられており、ここから先がまた異なる地区であることを示していた。この印は後になって調べて「鷲」のコントラーダと分かった。
〈シエナ大聖堂(ドゥオーモ)〉
コントラーダの印の所を左に曲がって上っていくと、もうそこはシエナ大聖堂のハザードの前であった。大聖堂の背後の左側から私たちは入っていったことになる。 
シエナ大聖堂はカンポ広場と並ぶシエナの見どころの一つと言われる。白大理石の間に黒縞模様の入る独特の色合いで、同じく緑と赤の配色のフィレンツェのドゥオーモとは異なり落ち着いた重厚さがあった。ファザードの細かい装飾や町創建伝承を象ったオオカミの彫刻は見事であったが、内部に入って見学するだけの時間がなく、ここもハザードの前で説明を受け、そのまま通り過ぎるだけだった。限られた時間で点的に名所めぐりをするツアーの止む無い点である。
〈カンポ広場へ〉
(地図7、チッタ通りとカンポ広場)
つぎに大聖堂前を右に折れチッタ通りに入った(地図7)。この通りがシエナのメインストリートのようであるが、緩いカーブとなっているこの通りもまた古い景観を残す通りであった。
途中に「お肉屋ミッコリ」という店が左側にあり、店先に掲げられているイノシシの頭の像が面白く、思わず撮影してしまった。イノシシ肉の食品も売っているようで結構な人気店のようである。
間もなくカンポ広場の入り口が右手に見えてきた(地図7)。
(カンポ広場、ネット写真)
広場の入り口通路から次第に広場の様子が見えてくると「これがカンポ広場か」という驚嘆にも似た感情が湧き上がって来た。人が行き来する広場の様子だけではなく眼前に聳え立つマンジャの塔とブッブリコ宮殿の威容が見えてきたのである。「世界一美しい広場」「貝殻を返したような勾配のある独特の形態」とすでに知っていた知識を実際に目の当たりにした感慨であった。息子も感動したようで、すぐにカメラを取り出し撮影を始めた。
ツアーの私たちはここで集合時間が決められ自由に見て廻ることになったが、息子とは広場の北側にある「ガイアの泉」や南側に接するマンジャの塔・ブッブリコ宮殿の周りを歩き廻ることになった。ここでも塔や宮殿の内部に入る時間はなかった。
「ガイアの泉」は広場の見どころの一つであるが、15世紀初めのクエルチャの彫刻よりも印象に残っているのが、そこにいた10代とも見える女の子たちであった。チェコからの観光だと言っていたが、こういう会話の方が旅の思い出となっている。
カンポ広場は観光客だけではなく、地元の人々も日常的に訪れているという。当然と言えば当然であるが、シエナ市民の広場たるのが本来の性格である。
ヨーロッパの都市に必ずある広場はみな中世以来の伝統を持つが、機能は、周辺農村や外来商人のもたらす農産物・商品の売買の場(市場)が立つことであり、政治的には市民への条例や裁判判決の布告の場であり、罪科による処刑もここで行われた。市民の職業ギルド(組合)の集会も行われ、また馬にまたがって行う騎士貴族層の槍の競技も行われて市民が見物した。広場はそういう貴族・市民や周辺住民の公共の場であり、それ故に、行政を行う市庁舎や時間を告げる塔が大方付属しており、ブッブリコ宮殿やマンジャの塔があるのはそういう理由である。
日本の中世にはそういう広場があったのであろうか。似たようなものにお寺の境内や神社の社前があり、門前市や定期市が開かれることがあったが、いわゆる「市民の広場」はなかった。商人・都市民が貴族・領主階級に対して「市民」として自立しなかった日本にはヨーロッパのような「広場」の伝統はなかったと言ってよい。
NHKの番組の「世界街歩き」などにはヨーロッパの都市巡りで、老人たちが広場に三々五々集まり、テラスのテーブルを囲んでたわいもない話をしている様子が映し出されるが、これは中世以来の「広場の伝統」というものを背景にしているものであろう。
私の家の近くのスーパーマーケット(=現在の市場)にはその前に僅かばかりのテーブルと椅子が設えられ、人々の憩いを誘っているが、誰も座っていない。とくに老人は話し相手もなく、家に籠っているのが常態である。形ばかりの日本の疑似広場は何も機能していないのである。 
カンポ広場での見学は間もなく集合時間となり、私たちはまたチッタ通りに出た。その目の前に見えたのがこのカンポ広場で毎年夏に2階開かれる祭りの「パリオ」の写真の横断幕であった。
〈パリオと広場〉
「パリオ」とはシエナ市の企画運営するイベントで、カンポ広場で競う裸馬のレースである。日本でいう自治会のような17のコントラーダが競うもので、選ばれた10のコントラーダの馬が出走する。毎年夏の7月2日と8月16日の2回行われ、各コントラーダは中世の衣装をまとい、それぞれの旗(これをコントラーダという)を振って応援するものである。800年以上もの歴史があり、イタリア全土に放映されるほどの有名な祭りである。
そういえば先に触れたように、最初に行ったサン・ドミニコ教会から大聖堂への道すがら、家や壁に架かるいくつものコントラーダの旗を見かけていた。ガチョウの旗、森の旗、鷲の旗である。 シエナでは街を形成する市民の自治組織がこのような独自の旗を持ち、長い都市の自治の伝統を維持しているのである。その競技と「広場」が不可分の関係にあるのである。
(地図8、コントラーダの旗の在った場所)
(17のコントラーダとそれぞれの名称)
(パリオの競技でのコントラーダの旗を持った行進)
日本ならばそのような伝統を持つ行事には何があるであろうか、と思う。まず思いつくのは毎年夏7月に行われる京都祇園祭であろう。室町時代より京都八坂神社へ奉納する町衆の長刀鉾巡行があり、それぞれの「町」(ちょう)が有する長刀鉾が京都の四条通りを引き廻されて行く。自治を行ったそれぞれの「町」の鉾とこの17のコントラーダはよく似ている。
(京都・祇園祭)
(古河・提灯竿揉み祭り)
私の住む古河(茨城県古河市)でも毎年12月初めに、近くの野木神社の祭礼を模した「提灯竿揉み祭り」というイベントがあり、各町内が提灯のついた竹竿をぶつけ合って1位を競っている。
これらはいずれも、都市を構成するそれぞれの地区が、「町」としての共同性を確認するという意味を持っている。洋の東西に関係なく商業や都市の発達が生んだ祭りである。
ただ違うと思うのは、それが「広場」で行われるかそうでないかということである。京都祇園祭は街路を引き歩くものであり、私の住む古河では駅前の狭いスペースを使って行われている。やはり日本には「広場の伝統」がないのだろうと思う。これらの祭りは、同じ都市民の成長を前提にしていても、「広場」で繋がる「市民」と言いう面では明確に異なっているのである。
私たちはカンポ広場を見終わった後近くに駐車してあったバスに戻った。時間はまだ午前中であったが、これから最後の目的地ローマに向かうのである。
(続く)






























