(イタリアの旅、その7)
〈ウフィツィ美術館を見て〉
ツアーの一行とは離れて、息子と二人だけでウフィツィ美術館の展示を見て回った。美術館だけではなくこれから一日は二人だけの自由行動である。
美術館には、ダビンチの「受胎告知」やリッピの「聖母子と二天使」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロの「ヒワの聖母」など、昔から写真で知っていたルネサンスの名画がつぎつぎに展示してあったが、、私が一番見たかったのはボッティチェリのあの有名な「ヴィーナス誕生」であった。これはウフィツィ美術館の見どころの一つでもある。
(ヴィーナス誕生)
小学校の6年のときに、図鑑か何かで初めて「ヴィーナス誕生」を見て、おもわず見入ってしまったことを思い出す。それは、絵自体よりも、ヴィーナスの裸体像と自らの性の目覚めが重なったものだったが、今思えばそれと併せて、ヴィーナスの表情が宗教画一般のそれよりも、どこかに微かな「憂い」があるように感じられたことにあった。ルネサンスの時代性ゆえなのかもしれないが、私には、それを通り越した現代的な女性の雰囲気が感じられたのである。
中学生になって水戸まで電車通学したが、家から駅までの道すがら、地元のミッション系の高校に通っていた女子高校生といつもすれ違った。その女性の顔はこのヴィーナスによく似ていた。いつもどぎまぎしながらすれ違ったが、その女性は、高校生の時に「世界ミスパシフィック」で準優勝し、のちに女優となり、映画「トラック野郎」のマドンナともなる「中島ゆたか」さんだった。美しい年上の女性と憂いのある「ヴィーナス」は思春期の自分の中で重なって、永く憧れの女性像となっていった。
(ヴィーナスのアップ)
(女優・中島ゆたかさん)
美術館見学は、素晴らしい時間だったとはいえ、3時間も名画を見続けているとほとほと疲れてしまった。時間は昼時になっていたので、一休みと3階のテラスにあったレストランに入ったが、そこからは隣りのヴェッキオ宮殿の時計台がよく見えていた。名画鑑賞はもう「満腹」となり、予定の街歩きもしなければと思い、これでウフィツィ美術館見学は切り上げることにした。
(シニョーリ広場)
ウフィツィ美術館を出た後、すぐ隣りにあるシニョーリ広場に行って見た。背後にはヴェッキオ宮殿があり、その前には有名なミケランジェロの「ダビデ像」(レプリカ)が立ち、左側では観光用の馬車の馬が麻袋に入った餌を喰んでいた。
ヴェッキオ宮殿は中世都市フィレンツェの市庁舎であり、メディチ家が力を持ってからはその政治を執った場所の一つである。シニョーリ広場の「シニョーリ」は「紳士」=市民の意味であり、自治を行った中世フィレンツェ市民の伝統を持つ場である。
(メディチ家の人々)
(コジモ1世 、1519~1574)
(15世紀後半のイタリア)
メディチ家は、ルネサンス時代の15世紀に祖のコジモ・デ・メディチがフィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、後にフィレンツェの実質的な支配者として君臨し、その後の16世紀半ばにはコジモ1世がフィレンツェを都とするトスカーナ大公国の君主となった名家である。その財力でボッティチェリ、レオナルドダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの多数の芸術家のパトロンとなり(とくにロレンツィオ)、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たした。
(カフェ・リヴォワール)
カフェ・リヴォワールは、娘とこの旅の3年前に来た時にも入ったカフェである。シニョーリ広場を挟んでヴェッキオ宮殿の向かい側にある。今は長い病気の娘との思い出の場所である。
(メルカード・ヌオヴォ(新市場))
つぎにシニョーリ広場からすぐ近くの「メルカート・ヌオヴォ」に行った。メルカート・ヌオヴォとは「新市場」のことで、近くのローマ時代からの共和国広場にあった旧市場に対しての呼び名である。メルカート・ヌオヴォノの中心には16世紀半ばに建設されたロッジアという石造りの柱廊があり、吹き抜けの場には多くの露店が並んでいた。
日本でも戦国時代も終わりの16世紀後半になると、経済の発展に伴い城下町に「新宿」という新しい町場が出来てくるが、中世社会の終焉と近世化という時代の趨勢の中で、あるいは似たようなものなのかなとも感じた。
ロッジアの南側にはブロンズのイノシシ像があり、観光名所になっている。鼻を撫でれば幸運がやってくるとか、舌にコインを置きうまく下の溝に落ちれば再びフィレンツェに来れるとか、そんな俗信がある。息子も鼻を撫でていた。
(ヴェッキオ橋へ)
つぎに通りを西に向かいサンタトリニータ教会まで行き、その前を流れるアルノ川に沿ってヴェッキオ橋まで歩いて行った。真夏の暑い日差しの中で日陰を捜しながらであった。
(ヴェッキオ橋)
ヴェッキオ橋は「橋」と言うよりは大通りで、両側には宝飾店やお土産店が並んでいた。「ヴェッキオ」とは「古い」の意味で、古代ローマ時代からあったらしい。もともとはここには肉屋が組合を作って営業していたが、専制君主となったメディチ家のコジモ1世が1565年に、ウフィツィ美術館の役所から宮殿のピティ宮殿との往復のためにこの橋の上にウェザーリ回廊を作ったとき、肉屋が川に捨てる汚物のあまりの臭さに立ち退かせ、替わりに貴金属商を住まわせたと言う。
肉屋がこの橋の上で営業していたというのが興味深い。汚物をそのまま周辺に捨てると言うのは、衛生観念の弱かったヨーロッパ中世都市では一般的であったが、川が汚物を捨てやすい場所だと言うだけでなく、「橋」そのものが、中世には卑賤視された肉屋(皮剝ぎ)の「屠殺」業との関りを示すのではないだろうか、とも想像した。皮剝ぎは刑吏などともに中世ヨーロッパの都市では賤視された職業の一つである(阿部謹也『刑吏の社会史』)。
(中世ヨーロッパの肉屋)
一般に民俗としての「橋」は「境界の場」であることを象徴し、あの世とこの世の境目とも意識されていた。これは世界に共通するが、屠殺(皮剝ぎ)の場であることもそれと関係するのではあるまいか。ヴェッキオ橋でもともと肉屋が営業していたことは、そこが中世において死穢の世界への入り口を意味し、屠殺(皮剝ぎ)によって卑賤視されていた人々を含む中世都市フィレンツェの空間構造の一端を示すものではないか、という想像を抱かせてくれた。また16世紀半ばのその立ち退きはやはり中世社会の終焉を示すものではなかろうか、とも思った。前に見た「メルカート・ヌオヴォ」(新市場)の成立など、専制君主のメディチ家・コジモ1世による都市整備との一連の事態ということである。
(ピティ宮殿へ)
ヴェッキオ橋を渡り、ピティ宮殿へ向かう通りの脇にピザ屋があったので、切り売りしていたものを買い、食べながら歩いた。
間もなく宮殿の正面に到着した。
ピティ宮殿は15世紀半ばにメディチ家に対抗するピティ家によって造られ始めたが、16世紀半ばに初代トスカーナ大公でもあったメディチ家にのコジモ1世に買い取られ、以後トスカーナ大公の住む宮殿となった。豪壮な建築である。
入場口から中庭に入り、そのまま建物に入ったが、2階から上が、メディチ家や以後のトスカーナ大公の収集した美術品を展示するパラティーノ美術館になっている。
まずトスカーナ公の住まいの一つであった「君主の間」に入ったが、その絢爛さには圧倒された。バロック様式の調度品の豪華さには「世の中にこんな贅沢な住まいがあるんだ」と、我が家の居間と比べる気持ちにすらならなかった(ちなみに我が家の居間のソファとテーブルもバロック様式のニセモノである)。
(ラファエロとムリョーニョ)
このパラティーノ美術館の目玉は「小椅子の聖母」「大公の聖母」などのラファエロの作品であるが、私には3階の近代美術館にあったムリョーニョの「聖母子」(下右)に惹きつけられるものがあった。
ムリョーニョは17世紀のスペインの画家で、上の「聖母子」は17世紀半ばに描かれたものである。ロココ調の先取りとも言われるが、少女漫画にも通ずる女性の愛らしさは左のラファエロの「大公の聖母」(上左)には見られないものである。同じ聖母子像であっても違うものだと思ったのと同時に、惹きつけられたのは、そこに近代の香りを強く感じたからだろうと思う。「大公の聖母」に見るルネサンスはやはり「近代の胎動」に過ぎないのではないかと思った。
ピティ宮殿も見終わり、つぎはフィレンツェの見どころの一つ、「花のドゥオーモ」(大聖堂)に向かうことにした。
(続く)




















