(戦死した伯父の生きた証、その4)
次の4枚目の葉書は、伯父・内山福之助がそれまでのセレベス島駐留からフィリピンに転進になった時のものである。
(伯父・内山福之助の遺影)
(葉書の表)
これは伯父が父親の内山福太郎に宛てたものである。
差出人の箇所を見ると、所属部隊(一三七三部隊)が、それまでの「壕北派遣」から「比嶋(フィリピン)派遣」に変わり、通称符号も「輝」から「威」に変わっている。この葉書の段階では、部隊はセレベス島からフィリピンへ転進していたことが分かる(地図1)。「輝」が「威」に変わっているのは、所属単位が「第二方面軍」(セレベス島担当、通称号「輝」)から「南方軍」(通称符号「威」)に変わったことを示している。
「南方軍」とは東南アジア一帯を管轄する「総軍」のことで、昭和19年5月、ベトナムのサイゴンからフィリピンのマニラに総司令部を移し、総司令官・陸軍元帥寺内寿一がフィリピン防衛作戦を指揮することになった。
(南方軍総司令官・陸軍元帥寺内寿一(右)。ネット写真)
(地図1、伯父は昭和19年夏、セレベス島からフィリピンへ転戦することになった。フィリピンは南方の地下資源を内地に送る中継で、戦争遂行上の命綱であった)
伯父の転進の背景には、昭和19年6月の米軍のマリアナ海戦勝利以後の北上があった。結果、濠北方面(西ニューギニア・セレベス島)の戦略的位置は低下し、第二方面軍の大半は南西方面への兵力転用となり、多くの兵員がフィリピン防衛に差し向けられることになった(地図1)。
(葉書の裏)
この葉書が出されたのはいつ頃のことであったろうか。
推測できる手掛かりは「新聞を見ましたが、またまた敵機がやって来たとの事、内地は大変ですね」とある点と、「三日前の日曜に始めて外出して見ました」「コーヒーは一杯八十銭取られ・・」と、現地の日常生活に触れている点である。
「始めて外出した」とあるのは、フィリピン転進後の間もない時期であることを示し、そこでは「内地は大変ですね」と思い遣り、コーヒーの値段まで記して平時の平穏な生活ぶりを示している。この点から、次回のブログで述べる、レイテ沖海戦(10月24日)、レイテ島戦(同20日)など米軍進攻による熾烈な戦闘開始よりは以前の時期と考えて間違いない。その点、米軍の本土空襲と思われる「またまた敵機がやって来た」との内地の新聞報道を示しているのは、11月24日を最初とするマリアナ諸島からのB29による本土空襲ではなく、それ以前の6月16日を最初とする、中国四川省成都からの北九州八幡・若松の製鉄所を狙った空襲を意味するのではないだろうか。
このように見て来ると、この葉書は、前回見たセレベス島発信の7月初旬以後のものとなり、それから8・9月頃までの間にフィリピンに転属となり、すぐに何処の地から発信されたものと言うことになる(厚労省の調べでは伯父の部隊はルソン島のマニラから後に北方のバヨンポンへ配備になったといい、その経緯から見てマニラの可能性は高い、(地図2)。
(フィリピン防衛に当たった第十四方面軍総司令官・陸軍大将山下奉文)
先にも触れたように、伯父が所属した「南方軍」は東南アジア全体を管轄する総軍で、総指揮官は陸軍元帥の寺内寿一であったが、隷下にフィリピン防衛を担当する「第十四方面軍」(通称符号「尚武」)があり、司令官には9月26日から陸軍大将山下奉文が新たに任命されていた。
この葉書の段階では伯父の部隊は南方軍の符号「威」のままであり、第十四方面軍の隷下には入っていなかった。そこから、葉書が出されたのは、可能性としては7・8月ごろということになるであろうか(次回述べるように伯父の部隊は10月24日のレイテ沖海戦の直前でも南方軍隷下のままである)。
なお、米軍のフィリピン攻撃に対し、レイテ沖で防衛するか否か、上司の元帥寺内と隷下司令官山下との間には対立があった。これは最後の葉書での問題となり、次回触れてみたい。
(軍事郵便通帳、ネット写真)
(軍事郵便通帳の中身、」ネット写真)
(祖父福太郎と祖母トメ。昭和40年頃)
文面で印象深いのは、父親に対して「貯金の番号を知らせておきます」と、その番号を記していることである。「貯金」とは軍務収入を蓄えた「軍事郵便通帳」のことで、戦地の野戦郵便所が取り扱っていた。「番号を知らせる」とは内地の実家でも引き出せるようにとの配慮であろう。
伯父は絶えず実家の生活のことを考えていた。今まで見てきた葉書にもいつも貯金のことや送金のことが書かれていた。実際に伯父の軍務収入が貧しい実家の大きな支えになったことを示している。長男としての責任でもあったのだろう。
(地図2、マニラと伯父の戦死の地ギアンガンの位置関係)
なお、伯父は、翌20年7月17日、半年以上にも渡る司令官山下命ずる「自活自戦」の結果、マニラの北方キアンガンの山中で餓死にも近い状態で戦死する(地図2)。死の間際に戦友に託したのがこの軍事郵便通帳であった。戦後まもなくその戦友が日立の家を訪ねてきて、父親(祖父)にそれを手渡してくれたそうである。自分の命の尽きる時まで肌身離さず大事に持っていたものが唯一の財産の郵便通帳であった。
(山中を行軍する日本軍。ネット写真)
天皇の名による一片の赤紙で召集された無辜の民の戦死の実態とはこのようなものであった。出征兵士とそれを出した当時の底辺民衆の生活実態との関係は、程度の差はあれいずれもこのようなものであったであろう。国家権力による恣意的な徴兵と、その背後に存在した貧しい家族生活とそれを支えた僅かばかりの軍務収入、このような関係性の中で伯父はフィリピンで、餓死という無残な最期を迎えたのである。
自分の身内であるだけに「貯金の番号を知らせる」という伯父のこの文面は切なくて涙が出てきてしまう。また結果として通帳を握って餓死を迎えたという最期の事実には、深い憐憫の情と共に満腔の怒りを覚えざるを得ない。
伯父が使用したであろう、その時の通帳印鑑が今でも実家には大切に残されている。
(続く)
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