(戦死した伯父の生きた証、その2)

 

 前回は、軍事郵便はがきの内容から、陸軍に招集された伯父内山福之助は、昭和19年頃、セレベス(スラウェシ)島の北部、マナド港の南になるトモホンやミナハサ高原付近に駐屯していたのではないか、と書いた(地図2・3)。

 

 福之助がセレベス島に駐屯していた時期の軍事郵便はがきにはあと2枚あり、そのうちの1枚を今回は紹介したいと思う。

(地図1、開戦当時の日本の勢力範囲と伯父の居たセレベス島とフィリピンの位置)

(地図2、セレベス(スラウェシ)島と港町マナドの位置)

(地図3、マナドの位置と、伯父がいたと思われるミナハサ高原・トモホンの位置)

(伯父・内山福之助の遺影)

 

         (葉書の表)

 

 

(私の父内山次夫の記念写真。入隊前の14・5歳の頃か)

 この葉書は、表書きにあるように弟の内山次夫に宛てたものである。伯父は当時23歳であった。私たち兄弟の父次夫は当時、海軍にいて筑波海軍航空隊(現茨城県笠間市友部町)の第六分隊に所属していた。昭和19年当時は17歳で、志願兵として入隊し、戦闘機の整備兵であった。

         (葉書の裏)

 

 この葉書は、上半分に駐屯している周辺の風景が描かれ、下半分には私信が書かれている。絵には港に停泊する軍艦が描かれているので、何処かの港と思われる。船の向こう側には三重に連なる山々とその手前の小丘陵が描かれ、海面を挟んだ手前右側にはヤシの木が描かれている。

 

 これは何処であろうか。前回のブログで、伯父の部隊が居たのは、セレベス島北部・マナド港の南方のトモホンやミナハサ高原ではなかったかと書いたが(地図3)、この絵の風景はマナド港のそれによく似ているのである。

 

(葉書き裏の絵の部分)

(マナドの町と海を挟んだ背後の山。ネット写真)

 軍事郵便に描かれた絵なので、風景を眼前にスケッチしたようなものではないであろう。おそらく営舎の中で、見た風景を思い出して描いたものではないであろうか。絵と写真では細部で異なっている箇所もありながら(三重の一番右側の山は実際にはない。また検閲があるため正確な描写も出来なかったであろう)、中央の山とその右側の山の描写は写真のそれとよく似ている。また山の手前の小丘陵も写真に認められる。それを考えれば、おそらく伯父の絵は、マナド港と背後の山を思い出して描いたもので、文面に「ジャングルなので写真屋もいない」と書かれていることからは、マナドから離れたミナハサ高原の何処かに宿営し、そこで描かれたものと想像される。

(私たちの父、弟の次夫。17・8歳の筑波海軍航空隊のころ)

 文面はまず弟次夫への激励の文章から始まっている。筑波海軍航空隊にいた弟に向かって「その后、次男(次夫)君もあの元気で雛鷲の一員として大いに勉強していることだらう。飛行機を見ては早くあの様になってお国のために尽くされることを祈って居ります」とあり、整備兵として日々の軍務に励んでいる弟を激励している。

 そのほか、同じ町出身の友人・田中勇二君に出会い、いろいろ郷里のことを語り合ったことや、家族の写真を送ってほしい旨、また自分の写真を送りたいが、ジャングルでは写真屋もいないことを述べている。

 

 伯父が戦場で一番求めていたものは何であろうか。それは当然であるが、家族からの返信や写真であった。

 

 前回のブログで取り上げた妹春子への葉書では「この間、写真ありがとう。暇ある度に眺め、小さい時の頃を思い出し、なつかしく思ふ次第です」とあり、家からも家族写真が送られてきていた。家族からの返信と写真が異郷での孤独感の大いなる慰めになっていたのである。「暇ある時に眺め」とは、その写真を肌身離さず持っていたことを示し、「小さい時の頃を思ひ出し」とは、その写真によって、遠い異郷の戦地にありながら、自分を育んでくれた両親や故郷を目の前のものとして思い出していたのである。この言葉の箇所は切なくて、書いている伯父の姿を想像するだけでも目頭が熱くなる。

 

 今回の葉書では、弟である私たちの父次夫に軍務精勤を促し「お国のために尽くせ」と綴っているが、建前のその言辞とは別の自然な感情が、前回の妹春子への葉書では綴られていた。今回の葉書でも「写真があったらすぐに送ってくれ」と書いているのは、それが一番の本心であったからだろう。不本意ながら戦場へ送られた多くの兵士に共通する心の在り様なのだろうと思う。

 

 軍事郵便はがきは、出征兵士にとって、孤独を慰める唯一の精神的支えであった。検閲を意識しながらも、そこには隠された本音があり、切ない感情がある。文面の裏側を推測しなければならないと思う。軍事郵便はがきは、戦場に駆り出された底辺民衆の心情・生の声を伝える貴重な歴史資料なのである。

 

(続く)