誕生日と命日はその人の始まりと終わりの日であるが、私の身内で、別人ながら重なっている人(日)がある。
(20歳のころの母・陽子)
(23歳で戦死した伯父・福之助)
私の母の誕生日は7月17日(昭和5年)で、父方の伯父がフィリピンで戦死したのも7月17日(昭和20年)である。また郷里の日立市(茨城県)が沖合いのアメリカ戦艦から870発もの艦砲射撃を受けて317人の犠牲者を出した昭和20年の日立艦砲射撃の日も同じ日である。そのため私にとってその7月17日は三重に意味を持ち、毎年その日になると妙に襟を正す気分になる。
(艦砲射撃の前6月の空襲で焼失した日立市街。7月の艦砲射撃の前にも攻撃を受けていた。軍需工場の日立製作所があったためである)
(6月の空襲で破壊された日立製作所)
(7月の艦砲射撃での犠牲者を悼んでの慰霊碑「陶輪碑」、日立市西成沢町)
誕生日と命日は、共にこの世に生きた人間の区切りの日であるが、私にとっては感じ方に微妙な違いがある。誕生日は私的で個人的なものであり、命日は公的で社会的なものであるという感覚である。
フェイスブックで、誕生日に「おめでとう」と友人から送られてくるコメントは有難いが、どこかこそばゆい。家族や愛する者だけでいいというのが本音である。70年以上も生きてくると、誕生日とは、その後の長い「苦難」の人生の始まった日であり、「おめでたい」とは二律背反の、いわばコインの表裏のような日だとの思っている。それ故に家族など真に愛する者が祝ってくれるのだろうと思っている。個人的なものと感じるのはそういうことである。
(生まれたばかりの私たち兄弟を抱く母・陽子。昭和29年2月)
一方命日は、長い苦難の人生がやっと終わった日である。家族を始め様々な人々と社会的に結びつき、愛と憎しみ、出会いと別れ、誠実と裏切りを繰り返した、惨憺たる人生が終わった日である。(運よく)家庭を営み、子を作り、生物としての役割を果たしたとしても、苦難を終えた日であることに変わりはない。戦死した伯父や日立艦砲射撃で亡くなった多くの人たちのように無念の死であっても、本質は同じである。社会的関係を経た死であり、決して誕生日のような個人的な日ではない。
(いろいろな影響を受けた学生時代の友人立ち。京都立命館大学広小路学舎前で、1975年)
(3度目のインドの旅。デリー近郊のイスラム遺跡クトゥブミナールで遠足に来ていた中学生たちと。私は、インドの旅から生きる上での計り知れない影響を受けた。2005年)
(人生で大きな影響を受けた畏友・故村上慈朗。60歳の還暦の日、2014年)
(一緒に生きてきた息子とのエジプト旅行、2016年)
酷暑の8月も半ばを過ぎ、このブログを始めた昨年の8月18日からちょうど1年が過ぎた。「人生のまとめ」、「自分史の叙述」と思って始めたが、多くの人に読んで欲しいと思って書いてはいない。妻や、障害のある息子、長い病気の家族に対して、自分がいなくなった後に、夫や父親が、子供時代からどのような環境に生まれ成長し、どういうものの考え方や行動をし、どのように一緒に生きてきたのか、そういう私的なことを記録として残しておきたい、という思いである。また可能であれば、兄弟・友人・昔の恋人など、かつて人生の節目節目で自分の内面と深く関わった人たちにも伝えたい、それが本音である。
その点では、このブログを始めた日ー8月18日ーは、ある意味では誕生日のようなものである。誰しもそうであるが、人生は「挫折と立ち直り」の繰り返しである。大げさに言えば「死と再生」である。このような文章を書くのも、老いが進む中、小さな「立ち直り」であり、「再生」の一つである。
誕生日は有難い。「長い苦難の人生の始まり」などと捻くれた考え方を持っていても、やはり命日とは違い、未来に向かう日であるからである。
家族のこと、愛した人たちのことを思い浮かべて、誕生日の意味、「再生」などと大げさなことを書いてしまった。私的なことゆえの迷い事である。しかし7月17日とは違って、8月18日は誰かの命日とは重ならない。遠い昔を思い返せば、この日はもう一つの誕生日と重なった日である。残り少ないながら、祝福したい日である。
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