8月15日、80年目の終戦記念日の朝となり、今年の2月に投稿した、23歳でフィリピンで戦死した伯父のことを再掲したいと思います。以下のとおりです。
最近の毎日新聞記事に、昭和20年2月10日の栃木県足利市百頭(ももがしら)の空襲とその慰霊の記事が載っていた。栃木県では二番目に犠牲の多かった空襲で、B29による爆弾投下で、2歳から80歳までの33人が犠牲となったという。40年前にその慰霊のため、地元の人たちによって空襲の概要と犠牲者名を刻んだ慰霊碑が建立され、慰霊祭が営まれた。10年前には70周忌を開いたが、しかし10年後となる今年は当事者も遺族も高齢化で少なくなり、慰霊は見送られたという。
(栃木県足利市百頭の空襲慰霊碑、齊藤弘さんのフェイスブック記事から)
昨年の11月に、兄がフィリピンで戦死した伯父・内山福之助の慰霊に、厚労省の慰霊巡拝団に加わって行ってきた。私たちの父はその弟になる。昭和20年7月、伯父はまだ24歳の若者で、部隊はマニラの北のバギオの山中を逃げまどい、伯父はその中のキアンガンという場所で、餓死に近い状態で亡くなったという。その死の様子は、戦後間もないころ戦友が家まで来て伝えてくれた。
(フィリピン・ルソン島北部の地図)
(慰霊団の献花、兄から写真提供)
兄の話では、慰霊巡拝団は総勢17人であったが、遺族の高齢化のため、その子供たちの他に孫・甥・姪もおり、多くが戦死した者とは直に接したことはないという。厚労省の調べで何処で亡くなったかはおおよそ分かっており、その近い場所の慰霊参拝所に2班に分かれて巡拝し、花を手向けたといっていた。
80歳を過ぎた娘さんの一人は「父ちゃん、長い間来れなくてごめんね・・さあ一緒に日本に帰ろう・・」と遠くの山に向かって呼びかけていたという。2歳で父親を失い、顔も覚えておらず、抱かれることもなかったというその人の言葉に、同じ想いの参列者一同、涙や嗚咽が止まらなかったと言っていた。
(参拝所献花台の伯父の遺影と家族の写真。兄から写真提供)
兄が厚労省から事前に勧められていたことは、戦没者の身内の方の写真を持って行っては、ということであった。私たちの父が2年前に95歳で亡くなり、他に4人の妹がいたが、これもすでに皆亡くなっており、伯父を知っている者は誰もいなくなっていた。
兄は祖父母(伯父の父母)の写真と、父や姉妹の伯母・叔母たちの写真を持って慰霊参拝所に置き、「親兄弟・姉妹みんなで迎えに来た」と手を合わせたと言う。家には墓があり、仏壇には遺影や位牌もあるが、現地に来て、亡くなった伯父の霊はまだその場所に留まっているという想いがそうさせたようである。伯母たちの遺影が「兄ちゃん、家族みんなで迎えに来たよ」と呼びかけたであろう、その情景を思い浮かべると、私も万感、胸に迫る思いがし、涙が出てしまった。
一番上の妹の伯母春子は。お盆などで集まるとよくこの伯父のことを話していた。歳が近いので長男の兄のことは身近に覚えており、頼りにしていた兄のことはいつも心の中から離れなかったようである。
いつのお盆のことであったか、伯母は兄と最後に会った時のことを話していた。
「兄ちゃんは南方へ行く前、隊の許可があって家に帰って来たんだ。でも訓練で殴られていたようで、顔にあざが出来ていた。一晩居ただけで、すぐに翌日の夜行列車で帰って行った。あれが兄ちゃんとの最後だった。あの時の姿を思い出すと、切なくて、切なくてやりきれない」と、伯母は、話の途中に突然、声を詰まらせ嗚咽した。
そのとき私たちの父は「軍隊で殴られることなど当たり前のことだ」と伯母に向かって言ったが、伯母にとって、その時の伯父の痛々しい姿は、何十年たっても忘れることのできない深い悲しみとして心の裡に残っていたのである。
また私の記憶に残っている話しでは、伯父は山中での最期の時でも、長男として家の生活のことを思い、いかばかりか蓄えた軍事郵便通帳(預金通帳)を、死を伝えたその戦友に託したという。これは最期の様子を伝え聞いた祖父か誰かの話で、兄が私に教えてくれた。せつなくてやりきれない話である。
(家に掲げられている伯父・内山福之助の遺影)
私は、20代の後半に結婚で家を離れてもう40年以上になるが、正月やお彼岸、お盆には実家に行き、仏壇に手を合わせる。居間の鴨居の上には先祖の遺影が掲げられており、祖父母とその伯父の遺影が昔からあった。そこに母が加わり、病気で実家を出なかった叔母が加わり、二年前に父が加わった。
軍服姿の伯父の遺影の脇には、靖国神社の写真とともに、日本政府から下賜された位記と旭日章が額に入れて掲げられている。いくつもの遺影が並ぶ中で、悲運の死を遂げた伯父だけが若い。
もうこの伯父のことを心に留めているのは私たち兄弟以外にはいない。
「人は二度死ぬ」と、昔読んでいたある短歌雑誌にあった言葉が、強く印象に残っている。一度目はその人の死そのものであり、二度目はその死を知っている人の死である。私たちが死ねば、悲運の死を遂げたこの伯父のことを憶えている人は誰もいなくなる。二度目の死で、伯父はこの世に存在したことすら忘れ去られていく。これは。いわゆる「歴史上の人物」を除いて、すべての人に例外なく当てはまる。
歴史を記録するというのは、一度目の死だけでなく、二度目の死で完全に消え去った人たちのことを何とか生き返らせようとする行為なのだろう、と思う。40年前の足利市の地元の人たちによる空襲の慰霊碑建立もそれである。専門的に言えば「資料保存」に通ずる行為である。
しかし終戦後80年目となる慰霊祭は今年は遺族の高齢化のため行われなかったという。慰霊碑そのものは残っても、地域で慰霊をする人たちがいなくなって行くのである。これは三度目の死ということになるのだろうか。
しかしそれでもなお生き返らせようとする行為がある。個別の記録のみでなく、それらを「史・資料」として集め、歴史として全体像を「叙述」することである。それは、生き抜いた人々の生活や人生をその時代の社会的背景・関連性を踏まえて叙述することであるが、そこでは死者は歴史上の人物や大衆の一人に後退しながらも、逆に普遍性を持つ存在になり、真に生き返って永遠性を持つことになる。それを行うのが歴史研究者の仕事なのだろうと思う。その点で歴史学とは人間の存在に不可欠の学問なのだろうと、私は思っている。
再掲は以上です。改めて平和への想いを心しております。




