お盆が近くなり、昨日、もう20年も前に亡くなった母のことを思い出し、母の俳句集『陽子句集』を本棚から引っ張り出して読んでみた。今までは気に入った句を拾い読みする程度だったが、今回は全155句をしっかりと読み通してみた。

(母陽子、二十歳のころ)

(家の近くの浜辺で父と。63歳。このころ俳句作りを始めていた)

(母の句集「陽子句集」、題字父次夫。兄が句集にすることを勧め、作り溜めた内、気に入っていた155句を選んでまとめ、印刷所で製本して友人・親戚などに配った)

 

 母がどうして俳句作りなどを始めたのかは、よく分からない。ただ、素養は生家の娘時代にあったようである。

 

 母は昭和5年に、今の神奈川県川崎市尻手にサラリーマン家庭の長女として生まれた。祖父(父)は茨城の日立から東京の大学を卒業し日通に勤めていた人で、川崎の家は借家だった。祖母(母)は神奈川県の小田原の北にある山北(足柄上郡山北町)という所の生まれで、小田原の女学校を出たたあと国鉄に勤め、そこで祖父を紹介されて結婚したようである。昭和3・4年ごろの話である。

 

 祖母の実家・湯山家は、江戸時代には山北(川村山北)の名主を代々勤めていた家で、18世紀初頭の湯山弥五右衛門は、元禄地震や宝永大噴火の用水路破壊と洪水で荒廃した村を復興した人物として知られている(日本人名大辞典・講談社)。大正13年には国から従五位の位階を追贈され、同地には顕彰碑も建っている。

 

(中学2年生の時、山北の大叔母の家を訪ねたとき。右側が私)

(JR御殿場線山北駅、ネット写真)

(山北町のみかん畑。「山北みかん」として有名。ネット写真)

 

 私は中学生の時にその山北の祖母の妹さん(大叔母)の家に遊びに行ったことがあり、その時に、祖父の作だという俳句を教えてもらった。

 

   蜜柑山 背負いて下りる 男かな

 

 山北は山間の町であるが温暖な所で、みかん栽培に適し「山北みかん」で知られている。当時も同じで、背後の山で栽培されていたらしい。この句は、祖父が祖母の実家を訪ねたときに、山から下りて来る人を見て作ったようだ。どこかに投稿し「蜜柑山を背負う」という表現が目新しくて、選に入ったらしい。私の母もその句を覚えていて、句集には「蜜柑山 背負ふ里にも 夕あかり」というのが見られる。

 

 祖母も俳句を作っていたかどうか、よく分からない。ただ結婚後、俳人の水原秋櫻子が先生をしていた品川の産婆さんの学校(昭和医学専門学校附属産婆看護婦講習所)で学んでおり、水原秋櫻子の話を私にもしていたので、それなりの環境にはあったようである。

 

 母は内省的な人で、多くの友人・知人を持つような社交的なタイプの人ではなかった。心の裡で繋がれる少数の友人を持つ人だった。そういう性格の故であろう、同人や句会などとは無関係で、人知れず俳句を作っていた。それも通俗的な花鳥風月ではなく、心の裡を句に託していた(ブログ「心を整理すること、母のこと」)。


 母の句集を見ると、作り始めたのはおおよそ父が退職した時期の60代の初めであり、73歳で亡くなるまで作っていた。私も、母の亡くなった年齢に近くなってよく分かるのだが、社会的役割を終えて人生を回顧する年齢になると、紆余曲折の人生や老いに伴う様々な心境を吐露したくなる。このブログもそうであるが、母はそれを俳句に託していたのだろうと思う。

 

 今回読み直してみて印象に残ったものの一つに、友人のSさんが亡くなった時に作った句がある。

 

 「五十九才で逝きし友六句」と但し書きを付けた上で、

 

   我先に なぜ着る喪服 春の蝶

 

   沈丁花 遥か匂ひて 通夜の雨

 

   人の死の 拠(よんどころ)無く 夜半の春

 

   現実と 夢との間 さくら草

 

   七七忌 心静かに 五月晴

 

   夢に会い 語る事なく 明易し

 

という六句である。

 

 Sさんは年下の友人で、近所に住んでいた。地元の人ではなく、他所から来たサラリーマンの奥さんで、一人娘を高齢になってから授かった人である。母がSさんといつごろ、どういうきっかけで知り合ったのかは分からないが、田舎の無神経な人ではなかったからか、母は気が合い、家にもよく招き、個人的な心の裡のことまで話せる人だったようである。母の周辺では、全く異質の人だった。私の知っている限り、この人が唯一の友人だったのかもしれない。句集に同一情景を6句も詠むのは他にはなく、特別の感情があったようである。これらには、自分の心の一部でもあったSさんとの早すぎる別れに、戸惑い、揺れる心情、そして鎮魂の想いが強く表現されている。若いお掾さんを残していった無念さを想っていたのかもしれない。

(息子祐輔の七五三のお祝いの席で、母64歳のとき)

(亡くなった年の正月初詣で、父と。73歳)

 

 親子というものはよく似ているものだと思う。私の性向もこの母親と全く同じである。社交的ではなく、親しい友人とのみ付き合っている。そして内省したものを表現しなければ気が済まない質である。違うのは、俳句のような短詩形で心を表現する才のないことである。