〈戦国期・小田原北条氏段階〉
(図12)
(小田原北条氏段階の古河城下町)
小田原北条氏の五代公方義氏への「御一家」化の中で、公方権力はその下に包摂化されていった。永禄11年(1568)の北条氏照の栗橋城主化と天正2年(1574)の簗田氏に対する第三次関宿合戦での勝利を契機に、小田原北条氏は古河-栗橋-関宿を結ぶ北関東進出の枢軸を確立し、佐竹・宇都宮氏など北関東大名層に直接に対峙していくことになる。「境目の城」となった古河城は。栗橋城の北条氏照の指揮の下、前年の永禄10年(1567)頃から公方義氏を介して急速に整備され、天正11年(1583)の義氏死後は城番制が敷かれて、支城の一つとして位置づけられるようになる。
この小田原北条氏による公方権力包摂化の中で城下町古河はどのような状況にあったであろうか。
①城郭
北関東の大名層と直接対峙するようになったこの時期には、城郭域の拡大と整備が見られるようになる。城郭については、永禄10年(同年比定北条氏政書状)・11年(同年比定北条氏政書状写)に北条氏政によって普請が計画され、天正8年(1580)には義氏によって大室郷以下五郷に人足の徴発が命じられていた(同年比定足利義氏印判状写)。このような中、天正11年以前の早い時期に北条氏照の古河城改修の一環として「新廻輪」(同年比定古河足利家奉行人連署奉書)が造成される。この曲輪は前代公方段階の曲輪配置とその方位軸の在り方[宇留野2010]から見て近世の桜町郭(丸ノ内郭)の部分の可能性が高いが(図12)、公方時代の家臣居住区を城郭化していったものと考えられる。また位置は不明であるが天正2・10年には「御門・橋以下」の整備がなされ(ともに足利義氏感状写)、天正5年(1577)段階では城内に、防御施設の「南木戸」を付設する「佐野門」が作られていた(足利義氏条書写・足利義氏古河城中掟書)。「佐野門」は、敵の攻撃に際して城内では最も外側の防御点で、「物主」(責任者、公方家臣豊前氏)が置かれ、また「城中」と「宿中」とを区分し、敵方の半手諸郷の者を排除する門でもあった(同右史料)。佐野門設置は後述する立地から見て、「新曲輪」(桜町曲輪)等の城郭大改修と連動していた可能性があり、小田原北条氏段階のものと見てよいかもしれない。天正2・10年の「御門・橋以下」の整備も佐野門や「新曲輪」に関するものかもしれない。
なお、佐野門の位置は、近世古河城の大手門となる近世観音寺郭の北の出入口に比定できる(図13)。ここは悪戸(佐野方面)や船渡(向古河方面)へ向かう東西の大通り(近世片町の通り、佐野道)に面し、そこから北へ分岐して白壁町通りへ入る地点でもある。白壁町一帯には前述のように公方段階形成の宿町が存在しており、「城中」と「宿中」とを区分する場に相応しい。また防御面から見ても、二つの道筋(佐野道・白壁町通り)の合流点で、城内への敵の侵入を防ぐには最も適当である。これらの立地状況は史料の内容に極めて合致している。佐野門より内側の近世観音寺郭一帯は、先述のように公方時代からの家臣居住区で、のち慶長年間(1596~1615)の松平康長段階に囲郭化したとされて(『古河志』)、小田原北条氏段階の城郭整備は未だ不十分であったと思われるが、一定の堀・土塁・城門を構え、「城中」と認識された場であったと考えられる。
②宿町(図13)
(古河の戦国期宿町。少なくとも3本の街路から成っていた)
公方時代まで遡るか可能性はあるが、この時期に「古河宿中代官」(公方家臣石川氏・岩堀氏(元亀4・1573、天正11・1581)、豊前氏(天正10、同11))や「古河宿御奉行衆」(天正8)が確認され、権力による宿町の直轄化と代官支配が展開していた。一方軍事的には、天正8年比定の文書に「宿城」と現れ(足利義氏書状写)、11年には小田原北条氏の足軽も防衛上から配置されて(古河足利家奉行人連署書状写)、城郭を防御する一種の外郭と位置づけられていた。宿町まで囲う「惣構え」の痕跡は確認できないが、宿町の北端には城下の出入口である「北口」があり、防御施設「備」が設定されていた(天正10年足利義氏感状)。宿町の南北の大通りである白壁町通りの最北部出入口には現在でもクランク状の筋違いが認められ、近世の城下絵図でも確認できる。おそらくこの部分が「北口」で、門・木戸などの「備」=防御施設が設定されていたものと思われる。なお、先の「佐野門」付設の「南木戸」とは、「南」の名称からして、正確には、佐野道を挟んで対面となる宿町南側の出入口の木戸のことと考えられ(現状は直線だが、ここもかつてはクランク状であった)、ここから宿町は白壁町通りの通る南北二つの木戸で防御され、通行が管理されていたことが想定できる。なお、以上の史料と現地景観の一致から見て、「その5」で検討した公方時代の宿町の位置問題は「中嶋・内山説」の正しさが証明できたと考える。
(古河宿町のメインロード白壁町通りの北の端の防御施設(「北口備」)の場所。今は緩やかなS字状のカーブになっているが、戦国時代には鍵の手状で木戸などが設置されていたと思われる)
(近世古河城の大手門の箇所。戦国期の「佐野門」がここにあった。手間の横切る通りは佐野方面に通じる佐野道)
(上の場所(佐野門)の反対側を見た写真。手前は佐野道。ここから白壁通りが北に延び、そこが戦国期古河の宿町の一部であった。この場所に「南木戸」があった)
(宝地院様御代下総国葛飾郡古河図.,悪戸新田と推定される箇所に「新町屋敷」の記載があり、ここが戦国末期の「新宿」であったと考えられる)
なおこの時期、古河宿中代官石川氏の管理下にあった「新宿屋敷」が存在してしていた〈図12参照〉。石川信濃守は天正10年ごろ公方義氏から「新宿屋敷分」を宛行れており(足利義氏充行状写)、この位置については、天正18年小田原合戦直後の秀吉家臣・田中石見守が検地した「下総国古河検地帳」の「新宿表二帖」の中に「あくと」との字名が見え、先の「悪戸」近辺と考えられるが、近世初頭の古河城下絵図(宝地院様御代下総国葛飾郡古河図)には佐野道が悪戸渡しに至る手前に、近世に悪戸新田村となる「新町屋敷」が描かれており(上写真)、「新宿屋敷」とは古河宿町からほど近い佐野道沿いのこの悪戸新田村のことと考えられる。先述のように悪戸の思川渡河点では天正13年下宮の土豪茂呂氏が公方権力から船役徴収の特権を認められ、また天正8年には、近隣下野生井の土豪大橋氏も北条氏照から伝馬三匹を用いて古河の御荷物を佐野道先の下野藤岡まで輸送することを命じられている(池澤文書)。「新宿」(悪戸新田村)はこの時期の悪戸の渡の存在や佐野道の交通・物流の活性化との関係で新たに形成された新宿であった考えられる。
なお、この「新宿」の成立には古河宿町住人の関りが考えられる。先の石川信濃守宛への宛行状には「但、萬乙宿中之者就被相出者、隠岐守如申定返上之儀不可有異議者也」と、「宿中之者」が「相出」られた場合には、父「隠岐守」の時の決定に従い新宿を公方へ返上するとの但し書きが付されいる。「相出」られる実態は不明であるが、これは新宿と古河宿町住人との何らかの関わりを示すものであり、近隣の小手指新宿(五霞町)など他の例から見ても、古河宿町住人が「新宿」形成や周辺耕地開発の主体であった可能性を示すものであろう。なおここから「悪戸新田」とは「新宿」開発に伴う新田であったことが分かる。
〈参考文献〉
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・市村高男1986「古河公方の権力基盤と領域支配」(『古河市史研究』11)
・市村高男2012「歴史を見る目、地域を見る目」(『古河の歴史を歩く』高志書院)
・市村高男2022『足利成氏の生涯』吉川弘文館
・稲垣泰彦1974「古河公方と下野」(『栃木県史研究』7)
・宇佐見隆之1999「港津における問の展開」(同『日本中世の流通と商業』吉川弘文館)
・内山俊身1995「戦国期簗田氏城下町水海の歴史的位置」(『そうわの文化財』4)
・内山俊身1998「征夷事業における軍事物資輸送について」(『茨城県立歴史館報』25、のち同『平将門の乱と蝦夷戦争』高志書院)
・内山俊身2002「戦国期古河公方周辺の流通に関わる人々」(『茨城県立歴史館報』29)
・内山俊身2007a「古河公方領国における流通」(『中世東国の内海世界』高志書院)
・内山俊身2007b「戦国期栗橋城主野田氏の被官石塚氏について」(『茨城史林』31)
・内山俊身2010「東国武士団と都鄙の文化交流」(『実像の中世武士団』高志書院)
・内山俊身2011「下総西部の中世の道」(『常総の歴史』43)
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・内山俊身2013「戦国期東国の首都性について」(『北関東の戦国時代』高志書院)
・内山俊身2015「陸奥との物流から見た平将門の乱」(茨城大学中世史研究会『常総中世史研究』3号、のち同『平将門の乱と蝦夷戦争』高志書院)
・宇留野主税2010「常総地域における古河公方の城と小田原北条氏の城」(東国中世考古学研究会『小田原北条氏の城郭』)
・古河市教育委員会2017「古河市歴史シンポジウム 川戸台遺跡をめぐる諸問題」資料集
・古河市史編さん委員会1985『古河城・鴻巣館』(古河市史資料第10集)
・古河市史編さん委員会1988『古河市史通史編』
・古河歴史博物館2010展示図録『古河城―水に沈んだ名城―』
・佐藤博信1989「簗田氏の研究」(『古河公方足利氏の研究』校倉書房)
・佐藤博信2000『江戸湾をめぐる中世』(思文閣出版)
・中嶋茂雄1984「古河城下町の形成と終焉」(『北下総地方誌』創刊号)
・西ヶ谷恭弘1986「中世の古河城」(『古河市史研究』11)
・菱沼一憲2016「野木宮の合戦再考」(『地方史研究』379)