〈戦国期・公方家段階〉

 

(図8) 

(戦国期・公方段階の古河)

(享徳の乱の古河公方勢力と上杉氏勢力の分布図、本陣とした古河と五十子の位置)

 

 享徳3(1454)年12月、鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を西御門御所に誘き出して殺害し、享徳の乱勃発間もない翌4年3月には鎌倉から古河へ移座した。それは上杉勢討伐軍の駐留長期化に止まらず、鎌倉より多人数に及ぶ奉公衆・奉行人、神官・僧侶・職人等の集団移動に結果し、「古河府」とでも呼ぶべき権力実態を有していた[市村1986、2012、2022]。鎌倉府の分裂であるこの乱は、北関東の伝統的豪族層を基盤とする公方成氏と南関東の中小領主・一揆勢を基盤とする関東管領上杉氏との対立であったが、それまでの南北対立の地域構造を古河の位置を要として逆転・再編したものであった(上図)

(申叔舟「海東諸国総図」『海東諸国紀』。京都を「日本国都」、関東の古河付近を「鎌倉殿」と記載)

 

 移座の経済的背景には御料所下河辺荘の存在と共に、東国を取りまとめる二大河川水系接点としての古河の地理的位置があったが[内山2013]、李氏朝鮮の領議政・申叔舟は文明3年(1471)に著した『海東諸国紀』の附図の中で、下総古河付近を畿内の「日本国都」(京都)に対して「鎌倉殿」と記し、同解説では「国人之を東都と謂う」と記している。享徳の乱で成氏(鎌倉殿)の移座した古河は、列島住人(国人)から見て京都に対する「東都」(東国の都)とまで認識されていたのである。以後最後の古河公方義氏が天正10年(1582)に死去するまでの約一三〇余年間、古河は公方御座所=古河府=「東国の首都」として特異な政治的・社会的位置を占め続けることになった。

 

 この公方移座は、右の事情から見て、それまでの下河辺氏~野田氏と続く自生的な中世都市古河に対して、関東支配の新しい政庁=「古河府」として、それに相応しい人為的かつ大規模な都市改造が展開されたのではないかという予測を生む。この点が具体的に確認できるか、つぎに戦国期の古河城下町の様相を見てみる。

 

①城郭

(鴻巣御所跡。御所沼に半島状に張り出す地。古河公方公園内に整備されている)

 

 成氏が享徳4年3月の移座当初入ったのは戦国期古河城ではなく、その南東部、御所沼に半島状に張り出す鴻巣御所の地であったといわれる(『鎌倉大草紙』)。そして東国各地への転戦の後、長禄元年(1457)10月に入って「相(総)州下河辺古河の城ふしむ(普請)出来して古河へうつりありける」(『鎌倉大草紙』)と、整備のなった新たな古河城へ入城したことを伝える。この「下河辺古河の城」とは、下河辺居館や古河御陣のあった立崎の城館のことであり、近世地誌『古河志』も「公方家は本丸より三之丸迄居城とす」(『光隆記』引用)と伝えている。古河入城が二段階を経たのは、それまでの城主野田氏を近隣の栗橋に移転させた上での入城であったためであろう。

 

(戦国末期の古河城の曲輪構造)

 古河城の曲輪構造は、当初より同一であったか不明であるが、天正11年(1583)年比定の古河足利家奉行人連署奉書には、古河城在番の北条氏照家臣間宮綱信が頼政口のある「蔵廻輪」を役所とし、敵の軍事行動に対しては「御本城」「中城」まで仕置きを担当すると見え、同じく同年比定の奉行人連署奉書には「新廻輪」なる曲輪も見えている。これは最後の公方義氏死去後の状況を示してはいるが、「新廻輪」を除けば、古河城が、従来より少なくとも「御本城」「中城」「蔵廻輪」から成る構造を持っていたことを推測させる(「新廻輪」は名称からして義氏死去後、あるいはその直前頃の北条氏の造成であろう)。そのうち「蔵廻輪」はそこに「頼政口」が付属することから近世頼政郭部分と見られ、残る「御本城」「中城」は、『古河志』の伝承に照らすと「御本城」=本丸及び西側の二の丸部分、「中城」=三の丸部分に該当する可能性が高い(上図参照)。これは主要三曲輪が南北に連なる連郭式城郭の構えである。

(渡良瀬川の向かい側のこの河川敷にかつての戦国期古河城・近世古河城があった)

 

 先に南北朝・室町期の「古河御陣」(野田氏城館)は、近世本丸に当たる下河辺氏居館部分を北に拡大したものかと推測したが、当時の城郭形態の一般的変遷から見て、「御陣」段階は複数の方形居館の集合形態の可能性が高く(その一つが鎌倉期下河辺氏居館)、戦国期に至ってそれに防御のための堀・土塁を構築し、最終的には三曲輪から成る連郭式城郭となしたものではないかと推測される。成氏が古河入城に際し行ったとされる「ふしむ(普請)」とは、城郭化の初期段階程度のものではなかったであろうか。確実な史料で「古河城」(足利義政御内書写)と見える初見が文明3年(1471)であることはそれと対応しよう。

 なお主郭(御本城ヵ)の虎口には成氏時代には「四足御門」が立ち、出仕した新田岩松尚純はここで下馬し、そこより「奏者所」まで徒歩で向い、主殿で成氏に対面した(『松陰私語』)。

 

②家臣居住区 

(近世古河城の曲輪配置。赤字の三曲輪の部分に戦国期家臣団の配置があったと推定)

 

 家臣居住区の位置については、戦国期古河城の南に位置する新久田の「上宿」「中宿」「下宿」との西ヶ谷恭弘氏の認識もあるが[西ヶ谷1985]、すでに中嶋茂雄氏が指摘しているように、城郭の北に接する近世諏訪曲輪・桜町曲輪(丸の内曲輪)・観音寺曲輪一帯であった可能性が最も高い(上図)。中嶋氏は『古河志』が、近世初頭に造成されたこれら三郭の地にそれぞれ成氏家臣の諏訪三河守、連歌師猪苗代兼栽(政氏招請)・晴氏食客の小山観音寺氏が居住し、地名の由来となったと伝えていることから、この一帯が戦国期には家臣居住区ではなかったかとしている[中嶋1984]

 

 中嶋氏の想定根拠に加えて次の事実も挙げられる。先に記したように、足利成氏の古河移座は奉公衆・奉行人等多人数の集団移動による「古河府」とでも呼ぶべき権力実態を伴っていたが、その居住区、とくに在地性を持たない在鎌倉奉公衆(佐々木氏・二階堂氏・海老名氏・本間氏など多数)の居住区の問題である。この点には史料的徴証はないが、在地の本拠から公方の許に出仕する在国奉公衆や近隣領主層の宿館については、公方成氏段階の近隣領主では新田岩松氏の「宿所」の存在が知られ、在国奉公衆では近臣栗橋城主野田氏が「舟渡之上」に「宿所」を与えられていた(『松陰私語』)。後者の「舟渡之上」とは、戦国期港津「舟渡」(近世船渡河岸)背後の渡良瀬川自然堤防上の意味と思われ、先の近世観音寺郭内かそれに接する一帯に当たる(図8)。岩松氏の「宿所」も古河城から舟渡の間にあり、野田の宿所まで「乗物」(輿)で出向いていることから(『松陰私語』)、城郭に近い近世桜町郭辺りではないかと推定される。桜町郭の小砂町からは延徳4年(1492)と明応5年(1496)銘の板碑が出土しており(『古河城・鴻巣館』1985)、発掘調査でも桜町郭桜門脇土塁下から戦国期の石臼やカワラケ・常滑陶片などの生活遺物が見出されている[同右]。在鎌倉奉公衆であった家臣層は、おそらくこの桜町郭~観音寺郭一帯に屋敷を与えられて家臣居住区の主体を構成し、その一角にこのような在国奉公衆や近隣領主層出仕の宿所も設置されていったと見るべきであろう。さらにここには、これら武家に付属する被官や中間・小者など奉公人、さらに鎌倉からの神官・僧侶・職人等も相当数移住したはずであり、その規模から考えて、両郭のみならず、東の諏訪郭含めた近世三郭に広がるかなりの規模の家臣屋敷地が想定される(諏訪郭でも一六世紀前半段階のカワラケの出土が確認されている〈宇留野主税氏のご教示による〉)。『古河志』の家臣伝承とも合致するこの想定からは、この地域が、城下町成立に伴う都市整備の面で城郭以上に大規模造成・改変なされたことを想像させる。

 

③宿町地域

(戦国期古河の宿町と港湾関連施設)

 戦国期の古河宿町の性格には、上に見た、関東支配の新しい政庁=「古河府」成立に対応した経済的側面―家臣団など急激に増大した都市人口の維持やそれに対応する社会的分業の進展―や、文化的側面―公方に付随する諸身分(公方人・芸能者・宗教者など)の家臣居住区以外の集住など―が大きく反映していたと想定される。

 

 職商人の居住する宿町地域の位置についてはすでに、右の茂平河岸・桜町から近世観音寺郭一帯にかけてと見る説(『古河市史通史編』(二五四頁)[古河歴史博物館2010][宇留野2010]、以下「古河市史説」とする)と、その北側に位置し、鎌倉街道中道(奥大道)も通過する厩町・仲之町・白壁町付近に想定する説がある([中嶋1984][内山2011]、以下「中嶋・内山説」とする。前者は確実な史料的根拠を挙げておらず、上記のように桜町郭・観音寺郭が家臣居住区と想定できることからも失当とせねばならないが、後者と考える根拠を挙げてみたい。

 

 まず史料としては『古河志』が引用する『小山家記』の記述が挙げられる。そこには「是迄の町家、侍小路となり、今の町家は其時の替地也、元和六年庚申の事とみゆ」と記され、元和6年(1620)古河に入った近世大名奥平忠昌による新たな町割りで、それまでの「町家」(宿町)が移転させされ、そこが新たに「侍小路」(武家地)とされたとする。

(古河藩士の家禄と空間配置(近世末期)、『古河市史民俗編』より)

 

 ここに見える旧宿町の「侍小路」とはどこであろうか。近世古河城下町の武家地は大きくは、三郭内の重臣・上級家臣層を中心とする居住区と、一般家臣層を中心とする郭外北側の厩町・仲之町・白壁町・代官町一帯他に分けられるが(上図)、「小路」との記述からは、前者とは考えられず、同形状を呈する後者の武家地と見るのがまずは適当となる。『小山家記』に従う限り、元和6年以前の宿町はこの地であった可能性が高いのである。

(白壁町通り。これが戦国期古河宿町のメインロード)

(宿町の3本の通りのうち最も西側の厩町通り。左側の家の辺りに「厩」があり、馬借たちの集住地と推定される)

 

 この一帯は、少なくとも南北の三本の通り(厩町・仲之町・白壁町通り〈代官町を入れると五本の通り〉)とそれと交差する東西三本の通りで区画された、辻・小路を持つ街区状の都市空間である(図9)。現況は近世武家屋敷地として整備された状況を示しているが、戦国期の宿町のあり方が基本的前提にあったと見ると、他の戦国期城下町の多くが自然発生的な一本街村状の宿町形態であるのに対し、何よりも都市的発達度合いと人為的造作(都市プランの存在)が看取できる。これは、まさに右に見た公方段階の鎌倉から集団移動した家臣団居住区の規模や形成過程に対応する在り方といえ、公方城下町全体の中に位置づけ極めて整合的な理解となる。

 

 ただここでは、街区状の都市空間が戦国期宿町の大枠をそのまま継承したものではなく、元和6年の町割・武家地化に際し、少なからざる整備が行われた結果ではないか、という疑念が残る。しかしその点は、三本の通り名(町名)や西隣りの代官町の町名が根拠となる。「白壁町」の名称は、蔵の連なる商人屋敷を想像させ、町場由来の町名と思われるが、ここが元和6年からは武家地になった以上、戦国期にまで遡る地名・通り名に由来することはほぼ間違いない。「代官町」の名称も、近世古河藩の代官所との記録や伝承はない上、戦国期の史料に「古河宿中代官」「代官所」が確認できることから(天正10年「足利義氏補任状写」、同「足利義氏宛行状写」)戦国期「古河宿」地名の名残と見るのが適当である。近世藩政期の「御馬屋」由来とされる「厩町」にしても、後述するように、交通業者・馬借とも重複する公方段階の「厩舎人」「厩衆」(天正4年「足利義氏官途状写」)の存在から戦国期に遡る通り名の可能性が高く、「仲之町」も白壁町・厩町と同時形成された町名を示している。以上から見て三本の通りや代官町の在り方は、近世初頭の町割り・武家地化で新たに整備されたものではなく、戦国期に遡るものであることはほぼ間違いない。

 

 さらに補足すれば、戦国期の都市住人の実態も挙げられる。すでに成氏の時代の古河には、岩松尚純の古河出仕を聞きつけ宿所に参上した「公方雑色・力者・輿羿・厩方」などの「公方者」(実態は通信・交通業などの都市民)や「座頭・舞々・猿楽」「上﨟」などの芸能者・遊女の存在が知られ(『松陰私語』)、早い時期から都市住人層における社会的分業の進展と都市的賑わいが存在していた。これはやはり宿町の規模や公方城下町の在り方に対応するものと思われ、複数の街区状からなるこの一帯の住人と見れば理解しやすい事態である。

 

 以上挙げた根拠からすれば、戦国期古河宿町の場はこの地であったことはまず間違いないと考える。後述する小田原北条氏段階に一艘の拡充・発展はあったであろうが、基本的成立は公方段階と見てよいであろう。ただこの様相が、戦国期に遡るとはいえ初代成氏の時期からすでに完成したものであったか、以後の公方段階に漸次されたものであったか、その点は必ずしも明確ではない。ただ、町場住人の鎮守である雀神社の茂平河岸からの移転伝承から見て、先に想定した近世桜町郭一帯への家臣居住区設定(→町場の立ち退き)と連動した事態と捉えられることは重要で、何よりも成氏の移座に伴って公方権力によってなされた城下町形成・整備の一環であったと評価できる。

 

④河港の所在

 

 右の新たな宿町・家臣居住区の設定に伴い、それに対応する新たな河港がそれまでの茂平河岸に替わり整備されていった。一つは、宿町と家臣居住区(近世観音寺郭)との間の東西の大通り(近世片町~船渡町、佐野道)が渡良瀬川を向古河へ渡河する地点である「舟渡」(近世船渡河岸)であり、もう一つが、同じ通りが分岐し(佐野道)、渡良瀬川・思川の川俣である下宮へ渡河する地点の「悪戸」である。(図8)

 

 戦国期の主要港津の場所については、先の宿町・古河市史説から茂平河岸とする理解がるが(『古河市史通史編』)、『松陰私語』(永正6年(1509)成立、岩松家陣僧松陰の回想録)には、文明年間公方足利成氏の下に出仕した新田岩松尚純が本拠上野金山城に帰還するに際して「舟渡」から「舟乗取」している事実が記されており、すでに舟渡が近世船渡河岸以前から河港として存在していた。ここは当時の古河出仕の近隣領主の帰還に利用されていることから古河最大の河港と見られ、また地理的位置から見ても、白壁町通り・厩町通り等の宿町と直結する存在であったと思われる(図9)。一方悪戸の方は古河城下町からは離れて立地しており、港津機能よりも渡良瀬川・思川を通行する船舶に課税する川関の性格が強く、後述するように戦国末期、天正年間の史料に「船役」徴収の場として現れる。

 

⑤舟渡の実態(図9) 

 

 舟渡には中世東国では史料的所見の少ない「問」(港津の水陸荷替業者)の存在が確認できる。元亀4年(1573)公方義氏が水海出身の商人的家臣小池晴実に「古河本郷」を宛行った際、その打渡し坪付け中に「とい(問)宿」なる地名が見える(小池文書)。「古河本郷」とは船渡河岸から戦国期宿町にかけての一帯と見られ[内山2007a](註3)、近世初頭(土井利勝藩主期1633~44)の古河城下町絵図(茨城県立歴史館蔵『宝地院様御代下総国葛飾郡古河図』)にはその一帯に「御馬屋」「船町屋敷」「蔵屋敷」が記されており、公方時代からの「問」と業務関連する馬借・廻船人・水主・倉敷など港湾関連諸集団・施設が集中して存在していた可能性が高い。

(『宝地院様御代下総国葛飾郡古河図』。河港の船渡河岸の近くに、戦国時代からの系譜を引くと思われる「御馬屋」「蔵屋敷」「舟町屋敷」が描かれる)

(道路の左側が近世観音寺曲輪の北の端。このあたりに「問宿」があったと思われる)

(中世の馬借。『石山寺縁起絵巻』)

 小池氏の一族で「厩衆」を率いる小池弥右衛門は天正4年(1576)義氏から「厩舎人」に任じられている(喜連川文書案)。網野善彦氏は中世前期の院・摂関家等権門の厩馬実務を担当する「厩舎人」「厩寄人」が交通業者・馬借集団と重複することを指摘しているが[網野1991]、これを容れれば弥右衛門の実態は、「厩衆」(馬借)と共に「御馬屋」付近に居住し、公方馬の管理・飼育のみならず、河港舟渡における物資駄送を担った馬借集団の頭目かとも想定される。一方、同族の小池晴実は、右のように公方権力から「問」の所在する舟渡周辺に知行地を得ていた上、義氏の奉行人筆頭芳春院周興の侍臣として、古河と渡良瀬・古利根川水系で繋がる武総の内海(東京湾)の重要港津、公方御料所の一つでもある武州品川の経営にも「代官代」として関わりを持っていた(鑁阿寺文書)。ここから晴実は、権力と結び付く前提として、港津舟渡において「問」や馬借など港湾関連諸集団全般を掌握・管理する「総合的問」[宇佐見1999]で、古河地方~旧利根川水系~武総の内海(東京湾)間の物流に深く関わった豪商であった可能性が認められる[内山2007a]。公方義氏の時期には「古河舟役」(弘治4年「足利義氏条書写」)が徴収されていたが、おそらく実際には晴実がこの舟渡で実務に当たっていたのではないかと推測される。また晴実は、仕える芳春院周興が公方「政所」(財政担当)を掌っていたことから[稲垣1974]、その実力を背景に義氏政権下の財務・交通吏僚として公方財政の実質を担っていた可能性が考えられる[内山2007a]。ここより、戦国期城下町古河の港津の内実と小池晴実を介した公方権力と流通との関わりが垣間見え、「交通・流通機能への依存性の強さ」との公方権力への評価[市村1986]の一端が窺える。

 

 なお冒頭で触れたように、小池氏の出身地の水海(古河市水海)は、古代に遡る古河と一体的な重要港津(郡衙・郡津)であり、関宿が発展する戦国期以前までは常陸川水系最奥の水陸交通の要衝であった。南北朝末期には、古河へ入部した野田氏と同様、下野足利の簗田厨から鎌倉府府奉公衆簗田氏が入部し荘経営に当たっていた。小池氏の屋敷地は城下町水海でも宿町地域(上宿)の街道沿いに位置しており、中世都市・水海の古くからの根本住人の一人で、室町期には両河川水系の交易活動で財を成した有徳人であったと見られる[内山1995]。晴実の公方権力への登用もその属性にあったと考えられる。参考までに水海城下町復元図を載せる(図10)

(戦国期水海の様相)

 

 

⑥下宮・悪戸の実態(図11) 

(下宮・悪戸の実態)

 悪戸とその対岸の下宮では思川を通行する船舶から「船役」(通行税)を徴収していた。天正13年(1585)下宮の土豪茂呂氏は義氏死後の足利氏奉行人集団より「悪渡船役」徴収権及び「船津屋敷」を預け置かれ、付近の野渡に給田を与えられていた(古沢家文書)。「船津屋敷」とは思川の悪戸・下宮の両岸に設置された番小屋の如き存在であり、「改」行為=通行検閲を行う川関の機能を有していた[内山2002]。川又である下宮には、おそらく渡良瀬川対岸の柏戸との間にも同様の施設が設置され、茂呂氏には両河川合流点通行の船舶掌握が一括して委ねられていたものと思われる。

(悪戸から下宮への渡し場。明治になるとここに舟橋が掛けられ、三国に渡る端なので「三国橋」と呼ばれるようになる。『古河市史民俗編』より)

(現在の下宮の船津。思川(右)と旧渡良瀬川(左)の川又の先端部になる)

 

 この地は北関東下野・上野・武蔵(北部)三国からの河川交通・物流を一点で扼せる地点であり、その重要性から上級権力と結ぶ在地諸勢力、とくに交通・流通に関わる氏族の渇望・競合する場であった。すでに茂呂氏以前の天文8年(1539)、野田氏の商人的家臣石塚氏が北条氏康から実妹(芳春院)の古河輿入れの功で「下宮ノ郷」「向古河村」を獲得し、永禄11年(1568)には野田氏から「あつ(く)と」(悪戸)「下宮ノ舟津」(船津屋敷の地)を得ていた(石塚照吉由緒書、[内山2007b])。天正13年(1585)の茂呂氏への預け置きも、茂呂氏自身の「望申」により「兵庫」(実名不明)を居替させて獲得したものであったのである。

 

 なお茂呂氏は近世に入ると船役徴収の特権を失い、立地と不可分の渡船業を生業(株所持、実務は地域住民)とする存在となるが(『古河志』)、ここから、茂呂氏などこの地に関わる氏族は、元来が川を生活の場とする「川の民」と深く結ぶ存在であり、交通検閲・船役徴収権も本源的には彼らの生業・性格に由来するものであったと見られる[内山2002]