〈平安末期~鎌倉期〉 

(古河市関戸(下河辺荘大野郷)の残る石造宝塔。仁安4年(1169)銘。石造宝塔・笠塔婆では日本最古のもの。下河辺氏が京都の石工を招いて造ったものと推測される)

 

 古河(茨城県古河市)の位置する下河辺荘の開発領主下河辺行義は、本所八条院へ寄進する以前の私領開発段階(一二世紀半ば)では古河の東部に位置する大野郷(古河市下大野・上大野)に本拠を有していたが[内山2010]、立荘後の嫡子行平の段階(一二世紀後半)に至り、古河立崎の地へ居館を設けて行く(「行平以来旧館」『永享記』、図6)。それは渡良瀬川・古利根川の水上交通掌握を意図しての本拠移転と見られる[内山同上]。奥州と結ぶ奥大道(のちの鎌倉街道中道)も大野郷を通過する道筋から古河を通過する道筋へと引き寄せられ、養和元年(1181)閏二月の小山氏・下河辺氏と志田義広勢の合戦である「野木宮合戦」も、主たる戦いはこの道沿いで展開した(『吾妻鏡』)。このとき遁走する志田方兵士を討ち止めるため下河辺行平・政義兄弟が固めたのは奥大道沿いの渡船場である「古我・高野の渡」であった(図6)

 

 この合戦については、近年の研究では下河辺荘の経済的利権をめぐる私戦との見方もされおり[菱沼2016]、そこには古代以来の港津古河の問題が伏在していたと思われる。なお、鎌倉中期の宝治合戦を契機に下河辺荘は下河辺氏の手を離れ、北条一門金沢氏の所領となったが、当時の古河の様相は不明である。

(中世成立期~鎌倉期の古河)

 

 つぎにこの時期の都市古河の具体的様相について見てみる(図6)

 

 下河辺氏の居館や渡船場・河港は、渡良瀬川に面する立崎の舌状台地一帯(近世古河城立崎郭とその北側の同頼政郭・本丸・二の丸の地域)にあったと推測できる。その根拠は、先の『永享記』の行平居館伝承もさることながら、①奥州へ向かう基幹陸路(奥大道)がこの地点を通過していたと考えられること[中嶋1984]、また近世の口碑で近世立崎曲輪の川手御門付近に武蔵側への渡河点があったと伝えられていること(原念齋『許我志』)、②明治期の頼政郭古墳(円墳、六世紀後半以降、近世頼政郭)の調査や大正期の河川改修工事の際の調査で、頼政郭から弘安二年(1279)を上限とする鎌倉・南北朝期の板碑が大量に出土していること(『古河市史通史編』『古河市史資料中世編』)、③鎌倉期に遡る真言宗徳星寺・日蓮宗妙光寺や頼政神社等の古寺社立地の伝承があること[中嶋1984]、などである。これら諸点は、立崎の台地一帯が平安末~鎌倉期において領主居館の場であるとともに、主要街道と河川との接点(渡船場)に形成された渡河集落であり、かつ複数の寺社が併存する都市的な場であったことを示唆する。

(古河・川戸台遺跡の位置、かつては渡良瀬川の港に面する場所に立地)

 

 また港津の実態で注目されるのは、前述した立崎の台地の南東に位置する川戸台遺跡(牧野地)の存在である。「川戸(かわと)」地名は「川津(かわつ)」(=河港)の転訛であり、川戸台の由来が「河港を見渡す台地」とすれば、遺跡の前面となる沼沢地(御所沼)に、船溜まりともなる古代以来の河港(「泊」)が所在し、またそれと一体的に武蔵側への渡河点が所在したと見ることができる。ここから、万葉集に謡われる「韓楫」船就航の「許我の渡」や、野木宮合戦で下河辺兄弟が固めた「古我の渡」とは立崎台地~御所沼一帯の可能性が最も考えられ、立崎の地は古代以来、奥大道と渡良瀬川の交点に形成された「渡」にして「泊」の港津・都市的場であり、その交通機能掌握を前提として鎌倉期の下河辺居館が立地したものと考えられる。