2 戦国期古河の城郭と城下町の様相
(1)中世都市古河の歴史的変遷
(関東の2つの内海と二大河川水系)
(二大河川水系の近接地古河と水海。両地を奥大道がつなぐ)
(三十八年戦争前後の軍粮貢献豪族の分布(開始前・青、開始後・赤)。戦争開始に伴い、北関東から陸奥への軍需物資は古河・水海間を経て河川交通で運ばれたと思われる)
〈奈良・平安時代〉
古代律令期(奈良・平安時代)の古河(茨城県古河市)は、万葉集東歌に「まくらがの許我の渡の韓楫の音高しもな寝なへ児ゆえに」と謡われたように、渡良瀬川の「渡」であるとともに「韓楫」付き船舶(準構造船程度の輸送船舶ヵ)も就航する港津としての性格を有していた。律令国家の対蝦夷戦争では、八世紀後半の三十八年戦争開始と同時に、同じ猿嶋郡の水海(郡衙・郡津、茨城県古河市水海)周辺の在地首長日下部氏が中央政府から「安倍猿嶋臣」姓を改賜姓され、後に一族の鎮守副将軍安陪猿嶋臣墨縄が陸奥での征夷に活躍する(『続日本紀』)。筆者は、その登用の背景に、水上交通に拠る東国から陸奥への軍需物資輸送の問題、具体的には二大河川水系を連動させた新たな交通体系の形成の問題があり、そこにおいて古河は、常陸川水系最奥の港津水海に対応する旧利根川水系の国家的港津であったと推定した[内山1998](図3・4・5)。この推定は近年の、官営鋳造工房と見られる古河川戸台遺跡(牧野地)の調査で裏付けられつつある(図6)。この遺跡からは、同じ対蝦夷戦争である出羽元慶の乱(九世紀後半)派遣兵士の備品かと推測される把手付き片口鉄鍋の鋳型が大量に出土している(下写真)。国家的要請を受けた郡司安倍氏による経営とも考えられ、原材料搬入・製品搬出から遺跡の近傍にそれを支える一定規模の河港が想定され、対蝦夷戦争における古河の港津としての性格が明確になりつつある[古河市2017]。
(川戸台遺跡の位置)
(川戸台遺跡の遺物、大量の蝦夷戦争従軍兵士携帯の鉄鍋鋳型が出土)
(『将門記』(揚守敬本)の陸閑奥岸(古河)の箇所)
(『将門記』(揚守敬旧蔵本)に拠る承平7年8月の将門の逃走ルート、水海を経て古河にまで将門は逃走した。この2地点に将門は何らかの拠点権利を有していた)
また筆者は、続く平将門の乱でも古河の港津との関りを指摘した[内山2012]。そこでは、乱の発端である将門と伯父平良兼の対立の本質が、陸奥から京への国家的貢納物・私交易品輸送をめぐる利権問題にあり、具体的には猿嶋郡司安倍忠良をキーパーソンとする二大河川水系の港津古河・水海間のターミナル機能をめぐっての対立であったとした。史料的根拠となる『将門記』も古写本の揚守敬旧蔵本から新たに見直しを行い、承平7年(937)八月、良兼の侵攻を受け逃避行した将門は、古河の河港と推測される「陸閑奥之岸」(クカカノヲクノキシ)(クカ=古河)に隠れたことを指摘した(上記地図、『将門記』写真)[内山2012]。また将門の坂東独立国家志向・構想も、上記の両港津とそのターミナル機能の掌握なくしてはあり得なかったものとした[内山2015]。
このように古河は、すでに奈良・平安期から河川交通上の重要港津としての性格が確認され、それも、東国を取りまとめる地理的・交通的位置から、対蝦夷戦争など国家的政策において特別の位置を占めていた。このような社会的性格を前提として中世の古河の歴史が展開するのである。
(続く)




