昭和40年代、70年反安保闘争前後に各地で展開された大学紛争は、今、昭和を振り返るテレビ番組などで、ゲバ棒を持ったシーンなどとしてよく放映される。大学構内には政治主張を大書きした「立て看」が並び、その前で学生がマイクを持ってアジテーションをしている姿も同様である。今の穏やかなキャンパス風景からは信じられない光景で、あの時期は驚くほど騒然とした時代だった。

(大学紛争、ネット写真)

 大学紛争は、私はちょうど中学から高校の時期であった。68年の全共闘による東大安田講堂の攻防から70年の反安保闘争までが運動のピークで、私はテレビのニュースではそれを見ていたが、まだ学生運動の意味はよく分からなかった。運動自体はその後過激化して失速し、72年の連合赤軍のあさま山荘事件、リンチ殺人事件が明らかになって終焉を迎える。あさま山荘事件は高校3年の冬のことで、大学受験を控えてテレビの前の炬燵で勉強している時だった。私の高校時代は、世間は大学紛争の高揚とその変質、終焉という騒然とした雰囲気の中にあった。

 

(高校3年生の時の私(右側)。友人と山登りをしたとき)

 

 ただ、そのような大学紛争と私の高校生活は決して無関係ではなかった。大学紛争は多くの高校に飛び火し、私の在学していた私立の男子高校でも「高校紛争」とでも呼ぶべき事態が起こっていた。近くの国立大学の活動家(全共闘ヵ)のオルグもあって、共鳴する同級生が「社研部」(社会研究部)を根城に活動を行っていた。私は高校2年のときに生徒会の役員をやっていたので、彼らと付き合いがあり、その中には水戸の国立大付属中学から来たTと、私と同じ下の中学からそのまま上がって来たFがいた。

 

 TもFも今思い出せばとんでもない奴である。当時学校の中で体育教師が起こした暴力事件があり、私たち生徒会は学校側に説明を求めたが、そのときの集会で、Tは弁舌鮮やかに学校側を批判していた。その度胸の良さと論理の明快さに「こんな奴もいたのか」といたく感服したことを憶えている。Fは、当時過激派が爆弾製造の教本とした「腹腹時計」を持っていたらしく(「腹腹時計」は1974年の地下出版と言われるので、その前身なのかもしれない)、警察からの内偵を受けていた(らしい)。学校側も相当慌てていて、その集会の場では私たちは密かにその噂を話題にしていた。 

 

 社研部の連中は教員など屁とも思わず、部室でタバコを吸い、解放区のような振る舞いをしていた。真面目な私は彼らの仲間になろうとは思わなかったが、教員と対等に渡り合う彼らは一面では眩しい存在だった。

(「放蕩祭」のポスター。同級生の板谷充祐さんの作。当時このポスターは専門家からも注目を集めた。板谷さん(ミック・イタヤ)は後に東京スカイツリー「ソラマチ」の壁面装飾他を手掛け、2012年にはグッドデザイン賞を受賞するなど、日本でも著名なヴィジュアルデザイナーとなる)

 

 その高校2年の秋(昭和46年・1971)の10月30日・31日に行われた文化祭のことは今でも忘れることが出来ない。「高校紛争」とも言うべき雰囲気の中で、私たち生徒会は、リベラル派の若い教員の支持もあり、学校側の猛反対を押し切って破天荒な文化祭を行うことになった。それまでの伝統的な「いばら祭」ではなく、「放蕩祭」という名称を付けた文化祭であった。「放蕩」は「放蕩息子」の「放蕩」で、世間の常識を嘲ったデカダンな気分を表現しようとしていた。既成の価値観を否定しようとする大学紛争の時代を反映していた。

 

 文化祭はデモンストレーションとして、学校から水戸駅まで、水戸の大通りを仮装行列して行進すると言うイベントを行った。先頭の車に横断幕やポスターを飾り付け、その後ろの行列には演劇部員の女装の着物姿や、ヘルメットと覆面姿でゲバ棒や旗を持った集団、その他思い思いの仮装集団が連なっていた。TやFと共に私もゲバ棒の集団の中にいた。仮装はレベルが高く、とくに演劇部員の女装は市民から絶賛を浴びた。多くの市民がそれを見ていた。

(先頭の車と背後の行列。車の前面にはポスター、横面には「放蕩祭」の横断幕を掲げている)

(仮装行列の中に見える「放蕩祭貫徹」のプラカード)

(水戸市内の大通りを仮装行列する。多くの市民が見ていた)

(仮装行列の一つの学生運動の仮装。ゲバ棒を持った中に私もいた。先生たちが心配そうに見守っている)

(演劇部員の女装の芸者姿。出発前に学校正門で)

(行進中の芸者姿の生徒たち)

 この仮装行列の甲斐もあって「放蕩祭」は大いに盛り上がり、男子校なので市内外の女子高生で溢れた。私のクラスのやったお化け屋敷は「女子のみ入場可」にも関わらず、多くの入場者を得ることになった(お化け屋敷自体は思想性も何もなく幼稚だと教員にはバカにされたが)。

(文化祭中の校内。他校の女子生徒で賑わっている)

(体育館で開かれたロックコンサート。このときは私服OKで、皆で踊った)

(隣のクラスが上演したミュージカル時代劇。文化祭の域を越えた内容で、多くの観客を得た。シナリオが充実し、そのパロディ性は捧腹絶倒ものであった)

(私たちのクラスの出し物のお化け屋敷。最初は男子学生も入れたが喧嘩になってしまい、女子しか入場させないことにした。これも大盛況であった。しかし先生たちからは幼稚だと批判された)

 

 この文化祭の達成感と解放感は今でも忘れられない。2日目の終了の後に、お化け屋敷の小道具を焼却するとき、クラスの仲間と抱き合って涙を流したのよく憶えている。今まで味わったこともない興奮の中に私たちはいた。

 

 この文化祭の高揚を契機に、私たち生徒会は制服自由化を学校側に求め、高校3年が始まる時には県下で初めてのそれを勝ち取っていくことになる。高校紛争の中で得た「勝利」であった。

 

 それにしても、あの熱病のような時代は何だったのか、と71歳になった今しみじみと回顧する。長年高校教師をしてきても、このような生徒の熱気には出会ったことは一度もなかった。青年期特有のヒロイズムと思い上がりがあったとはいえ、時代を変えようとする学生運動のエネルギーの中で、夢のような時代であった。

 

 しかし「祭りのあと」には自分の人生の進路を決めなければならない大学受験が待っていた。この動きの中心にいたTやFはその後高校生活からドロップアウトして行き、退学こそしなかったが、Fは1年落第し、Tは結局大学へは進むことが無かった。

 私は、この高校紛争の中でマルクス主義哲学者・柳田謙十郎の『史的唯物論』という本に出会うことになる。それは文化祭の熱気も冷めやらぬ11月のことで、学生運動の影響を受け学校の図書館で手に取ったものであった。「歴史的事象は階級闘争の展開過程」とするその見方に、「なるほどそうなのか」「歴史は支配される側からの闘争の結果なのか」「歴史には法則性があり、科学的に分析・説明できるのか」と、「高校紛争」に重ねて、この本に大いなる感銘を受けた。大学で日本史学を学ぼうと決めたのはこの本の影響であった。私はその後、京都の立命館大学に進学することになっていく。