奥さんがその夫のことをどのように見ているのか、ということはとても興味深い。一番身近にいる人だから、その言葉からは本当の顔が見えて来る。私の場合は惨憺たるものであろうが、その点「夫とは喧嘩したことがない」という話を最近二人の女性から伺って、そんな夫婦もあるのだなと、ゲスの私はいたく感じ入ってしまった。二人の夫とは、最初に社会人となった時の上司のM先生と、中学以来の畏友だった村上慈朗である。
40年以上も前に私たち夫婦の仲人をして頂いたM先生が昨年11月に94歳で亡くなった。奥様から喪中の葉書を頂いてそれを知ったのだが、あわてて弔問し、奥様からは生前のお話をいろいろと伺うことになった。
(45年ほど前、社会科の研修旅行で山形へ行ったときのもの。座っている下の段の右端がM先生。私は左端)
M先生は、私が最初に教員になった時、その学校の社会科の主任をされていた。温厚・清廉な人柄で、私は心から尊敬していた方であったが、就職して5年目に結婚することになり、そのM先生に是非にと仲人をお願いしたのである。M先生は某有名国立大学を卒業し、普通ならば管理職や県教委の重職に就かれてもおかしくない人であったが、出世欲や政治性がなく、最後まで一教員として教員生活を終えられた。また短歌作りを趣味にされていた。
先生は、県北の開業医の三男として生まれ、長兄の方が医院を継ぎ、自身は高校の教員となった。長兄の方は戦時中軍医として応召され、中国で戦死されたという。先生自身も中学の時に日立大空襲の中を逃げまどった経験を持ち、そのため「戦争反対」の想いを一貫して持っておられた。「戦争だけは絶対にダメだ」と事あるごとに私たちに話されていた。世界史の授業でも子供たちに語っていたと聞いている。作られた短歌でも、戦死した兄や苦しい生活を強いられた家族のことを取り上げ、それは朝日新聞の歌壇に何度も掲載されていた。
久しぶりにお会いしたその弔問のとき、奥様は「夫とは喧嘩などをしたことは一度もなかった」と仰っていた。また「穏やかな性格で怒ることがなく、私のことをいつも気遣ってくれた」「怒るのは戦争や社会の不正に対してで、それは穏やかさの裏返しだった」「本当に尊敬できる人でした」とも仰っていた。奥様は、年老いても美しく上品な方で、馴れ初めは先生が教育実習に来た時の生徒だったと仰っていたが、「文通」で交際を深められて行ったという。お二人のそのころを想像して、さもありなんと思った。世の中にはこういう高潔で素敵なご夫婦もあるのだなと、わが身を振り返ってしまった。
50年来の畏友の村上慈朗も奥さんに惚れられていた男だった。亡くなってもう8年になるが、毎年命日には訪ねて行って奥さんと昔話をしてくる。
(村上慈朗、還暦の時のお祝いで)
村上慈朗は、私の水戸の私立中学時代の一年後輩であり、「史学部」という部活動で知り合った。中高一貫の部活動では古代遺跡の発掘を一緒に行い、大学時代には『思想の科学』の読書会でも付き合いがあった。私が結婚で古河(茨城県古河市)に移り住んでからも縁が続き、隣の高等学校に新採として赴任してきていた。同じく総和町(現古河市)の文化財保護審議会委員となり、その後は総和町の自治体史編纂の仕事も一緒にやった。専門の考古学では極めて優秀であったが、専門バカではなかった。性格は自由闊達でまた反骨精神が強く、教員としては、エラそうな奴(とくに管理職)に対してとことん攻撃する男だった。組合の闘士として有名であったが、懐が深くて情があり、女にもてる男だった。
しかし一方では無頼な奴で、むちゃくちゃなことばかりやっていた。とくに酒癖が悪く、一度二人で古河駅の傍の店で飲んだ後、ロータリーで大の字に寝転がって夜空に向かって吠え、通り過ぎる通勤客に迷惑がられていたことを思い出す。車で家まで送ろうとしていた妻はあきれ返り、「こんな不良とよく何十年も付き合ってきたものだ」「もう付き合いは止めた方がいい」とまで言うほどであった。
思い出の一つに、ある年の総和町の文化財保護審議会の研修旅行で、群馬県の伊香保温泉に行ったときのことがある。夜の二次会で、二人でタイの若い娘たちを置く店に行ったが、村上は自分の金をすべて千円札にしてもらい、若い娘たちの胸元に次々と入れていった。私にもやれと言って来た。中年男のスケベ心かと思ったが、「この娘らは好きで日本に来てるんじゃない。稼いだ金は親元に仕送りをしてるんだ。その金だ。お前も出せ」と言うことだった。酒癖が悪くとも、頭の中には優しさと正義感が詰まっていた。
先月の命日に伺ったとき、夫婦仲はどうだったのか、奥さんに聞いてみた。やはり奥さんは「夫とは喧嘩などしたことは一度もなかった」と言っていた。また、彼女が質問すれば、何でも丁寧に教えてくれたと言い、分からなければとことん調べて教えてくれた、と言う。身近な人を最も大事にしていたのである。
村上の家には今も猫が4・5疋いる。昔はその倍近くいた。みな村上が引き取ったものや野良猫を拾ってきたものである。弱いものにまず目が行った。その猫たちを奥さんは今でも大事に世話をしている。そういえば、障害のある私の息子のことも、どこか就職できないかと心配してくれていた。
村上は、大震災の福島第一原発の事故で放射能汚染が茨城にも及んだ時、組合の関係からか、学校などの除染作業を先頭に立ってやっていた。肺がんになったのはそのときにセシウムを吸い込んだのが原因だと私には言っていた。
亡くなる前のことも思い出す。一緒にドライブしようと誘い、栃木県岩舟町の天台僧円仁ゆかりの地を回ったが、生誕の産湯の跡ではもう疲れて動けないと言っていた。亡くなる年の1月末に行った古代川戸台遺跡のシンポジウムではコーディネーターの一人になってもらっていたが、私の報告も聴くことも出来ずに奥さんに支えられて帰って行った。
(2017年1月29日、古河市で行ったシンポジウム「古河川戸台遺跡をめぐる諸問題」のポスターと会場風景。最後の討論のときのコーディネーターになってもらっていたが、会場に来ただけで、登壇できず、帰って行った)
奥さんは遺骨をお墓には入れず、骨壺のまま家に置いている。夫を身近に置いておきたいのである。自分が死んだら、樹木葬にして二人だけで埋めてもらうのだと言っていた。
長年一緒に暮らしてきた夫婦で、全く喧嘩などなかったというのは連れ合いゆえの良い解釈であろうが、M先生と言い、村上と言い、年老いても(死んでも)奥さんから惚れられているのは羨ましい。こういう男は本物である。自分は、まずそう思われることはないだろう(と思う)。


