過日、長年の友人の音楽家のHさんから、彼女の曲の入った1枚のCDとその楽譜本(指附表)を送って頂いた。楽譜本に書かれている題名は「貴女を忘れない・・・ー笛で紡ぐ想いー」というもので 一昨年亡くなられた妹さんを偲んで作曲されたものである。すでに同様のCD2枚を作っておられるが、今回は専門の横笛の作品である。8曲が収められている。

 

(送っていただいたHさんの楽譜本「貴女を忘れない」とCD)

 

 本のプロローグには、それぞれの曲名と簡単な案内が書かれている。二三、心に残ったものを書き写すと、つぎのようなものである。

 

 1 清らかな時(曲名、番号は曲番。以下同じ)

    足指の爪を整えた。深爪しないように「また後でね」と、途中で止めた。貴 

    女は赤子のような純粋な眼差しをしていた。

 4 耳を澄ますとキャリーの音が聞こえる

    その1年前、手料理を用意して、そわそわしながら待っていた。キャリーを

    転がす音がして、貴女が今、帰ってくる。

 5 慟哭も美(うるわ)し 

    さらに数十年前、母との別れの時、貴女は2階の自室で、ありったけの声を

    あげて泣いた。その嗚咽はあたりじゅうに響いて苦しげだが、美しいと思っ

    た。

 

 1は、妹さんが入院されたときに足の指の爪を切ってあげた、その時の妹さんの表情を説明している。4は、入院する1年前の妹さんがまだ元気な時分に、家にやってくるのを待ち遠しく迎える気持ちである。5は、数十年前のお母さんを喪くした時の妹さんの「慟哭」の思い出である。これらを横笛の曲にしている。

 

 妹さんは回復の難しい病気だったようである。

 1にある「赤子のような純粋な眼差し」とは、病室のベッドに臥せている妹さんの清澄な「心の裡」を実感した故のものだろう。曲名にした「清らかな時」も同じで、死と繋がる、妹さんの「透き通った心」そのものを表現しようとしたと思える。

 4にある「キャリーを転がす音がして、貴女が今、帰ってくる」とは、妹さんが元気だったころと同じように(心の中では)生きて「帰って」来ており、曲名の「耳を澄ますと」「聞こえる」は、彼岸に在る妹さんとの深い心の交流の想いであろう。

 

 私たちの年齢(70代初め)になると、親を見送り、家族を喪い、親しかった親戚・友人たちも少しずつ鬼籍に入って行く。かつて愛情を交わした人たちが消え去り、皆「思い出」の人となって行く。それを実感することが多くなった。

 

 そういう中で、とくに「思い出」を文章にしたり、Hさんのように作曲したりするのは、それまでの、輪郭のない曖昧な感情に形を与え、自分の心を整理することにもなる。とくに「忘れ難い」人の場合には「思い出」以上の意味を持ち、その死を「昇華」して納得し、これからの人生を、共に生きようとする前向きの力になる。このようなブログを書くことも同じである。

 

 「表現」とは有難い行為である。とくに死者への「想い」を表現することは、死者を眼前に生き返らせる行為であり、此岸と彼岸の垣根を越えて、生者と死者が繋がり続けようとする行為のように感じる。これも「供養」の一つであろうが、いわゆる宗教のそれよりも能動的で自立的な力を持つように思う。HさんからCDを頂いて一番に思ったのはそのことである。

 

 この横笛のCDも、以前頂いたピアノ曲(「幸ちゃんが小さかった頃」)のそれも車の中で聴いている。音楽には詳しくないので、繰り返し聴くことしか出来ない。車のカーステレオはちょうどよい。エンドレスで聴くことができ、車から降りてもしばらくは頭の中で響いている。

(過日のコーヒーコンサート。この時は能楽師を招いて、自身は囃子方として専門の横笛を吹かれた)

 Hさんはもう40年近く独りでコンサート活動を続けている(ブログ「久しぶりに能を見て」)。このCDはその成果でもある。

 

 このようにCDを送って頂き、いつも気に留めて頂いていることは何よりも有難い。長年の異性の友人の、それも同年齢の方なので、老境に入っても、まだまだ内なる力が湧いてくる気がする。生きていて繋がれることは有難いことである。