(エジプトの旅、その8)
今もそうであるが、歴史的に「都市」というのは幾つかの構成要素から出来ている。それは、商取引の場=市場(広場)の存在であり、それに関わる商職人の居住地(常設店舗・工房)=町場の存在であり、それと離れて都市を領域支配の要とする領主の館・城、城廻り=行政官庁・軍事施設の存在である。またそれらに付随して、それぞれに宗教施設(寺社)や教育施設、墓地などが立地する。またこれらの場所や相互関係は時代により変化し、現在に至っている。
(カイロの都市図、紫色の点線がギザからカイロに入って来た道筋)
(カイロの発展図)
カイロは、古代ローマの時代にナイル川岸のオールドカイロに町場が作られ、これが都市カイロの始まりとなった。中世に入った12世紀後半、アイユーブ朝を開いたサラディンが十字軍との戦いのため城塞(シタデル)を築き、14世紀末にマムルーク朝の初代スルタンのバルク―クがハーン・ハリーリ市場を開いた。この市場の通りを挟んだ向かいには世界最古の大学・アズハル学院が立地している。これは古く972年にイスラム神学・法学の研究ために作られた大学で、今でもイスラム各地から学生が集まり、イスラム教スンニ派の最高学府として君臨している。
(オールドカイロを過ぎ、まず最初にサラディンが作ったシタデル(要塞)が左手に見えてきた)
(ハーン・ハリーリ市場に着く直前に世界最古の大学アズハル学院が見えてきた)
旅も3日目、エジプトの古代遺跡の見学も終わり、今日は中世のエジプトを見ることになった。
午前の9時過ぎに、ギザのホテルからガブリさんの車でナイル川を越え、カイロの町に入って来た。途中シタデル(要塞)の脇を過ぎ、さらにカイロのイスラム教最大の墓地「死者の町」を右手に見ながら、エル・フセイン広場へ車はやって来た。ガブリさんは左手に見えるモスクがアズハル学院であると教えてくれた。「アズハル学院」と聞いて、世界史の授業で教えたあのアズハル学院とはこれなのか、と感動にも近い気持ちになった。イタリアのボローニャ大学よりも古い世界最古の大学である。
エル・フセイン広場から先が、今日最初の目的地、ハーン・ハリーリ市場である。
(ハーン・ハーリーリ市場付近と歩いた路地・エルモスキ通り)
(広場から市場通りに入る所。露店が並ぶ。これが本来の市場なのだろう)
(ハーン・ハリーリ市場に入る。エル・モスキ通りという。店舗が並ぶ)
(商っている商人。衣類だろうか)
(小麦や香辛料が並ぶ)
(露店売りも見られる)
(路上のカバン売りと焼き芋屋)
(ちょうどお昼で、拡声器からコーランの響きが聞こえ、祈りが始まる)
(道端に敷物を敷き、祈りをささげる人たち)
(店から裏に入ると市場のモスクの前で祈りをしているところに出くわした)
(モスクの階段を上っていくと女の子が座っていた。サンドスちゃん、12歳)
(少しおしゃべりをし、握手させてもらった)
(ハーン・ハリーリ市場の端から見たアズハル学院)
(アズハル学院、ネット写真)
カイロの町場としての発展は、3世紀、ササン朝ペルシアが東ローマ帝国と戦争を繰り広げたためシルクロードの道筋が衰え、アラビア半島や紅海を経て地中海へ抜けるルートが中心になったからだという。カイロは、イスラム商人たちによるユーラシア大陸の東西を結ぶ交通・交易上の要地になり、アジア・中東の物産がこの町場を賑わした。こういう世界的な交流の場所だから、世界最古のイスラム教の大学であるアズバル学院も出来た。また町場というものは商人をはじめ多様な人々が集まる「開放された場」である。領主の規制が強すぎると商人はやってこない。都市には自由が必要なのである。学問と「開放された場」というのは密接な関係がある。自由な気風のある場でなければ学問は発展しない。アズハル学院がハーン・ハリーリ市場の隣に立地している所以である。
(古河市下大野の浄土宗談義所・正定寺)
私の住んでいる古河(茨城県古河市)と言う場所は、中世の時代、鎌倉街道中道という鎌倉と奥州を結ぶ重要な街道が通っていた。そのうちの下大野というところには、真言・天台という古くからの宗派の他に、鎌倉時代になると律宗、浄土宗、浄土真宗などの新仏教系の寺院が軒を並べるように成立していった。「マチヤ」(町屋)という小字も残っており、商人などが集まる町場であった。これらの諸宗派寺院が密集するのは多種多様な人々の往来や活動があったからである。
その寺院の一つに浄土宗の正定寺という寺がある。この寺は中世の後期には「談義所」「檀林」と呼ばれ、浄土宗の学問所として有名であった。いわば大学のような存在である。浄土宗の鎮西義藤田派の学問所であったが、室町時代には他派・白旗派の僧侶もやってきて議論を戦わした史料も残っている(大蓮社酉誉聖総書状補闕写)。交通や交易の町場で、老若貴賤を問わず様々な人々に開放された場である故にこのような中世の大学も成立し得たのである。
世界的な中世都市カイロと日本中世の一地方都市を比較するのは極端すぎるが、成立や機能は基本的には同一である。規模こそ雲泥の差があるが、歴史的現象としては同じものである。カイロのハーン・ハリーリ市場の散策は、世界史との比較の中で自分の住んでいる地域の歴史を考えるいい経験となった。
(続く)





















