過日、大学時代の友人のYさんから『天神さまと二十五人』(太宰府天満宮文化研究所刊、平成14年)というご本を送っていただいた。太宰府天満宮ゆかりの人たち25人をそれぞれ担当者が詳述したもので、彼女の論文「近衛信尹ー安土桃山時代随一の文人公卿ー」もそこに収められている。

(太宰府天満宮刊『天神さまと二十五人』)

 Yさんは長く大宰府天満宮付属の文化研究所の研究員をしてきた人で、とくに天満宮文書の国指定を行った古文書の専門家である(ブログ「学生時代のマドンナからの便りー人生の宝物ー」)。彼女の論文は、京都五摂家の一つ近衛家の、戦国末期~江戸初期の当主近衛信尹(のぶただ)と太宰府天満宮との関りを、天満宮文書などから述べたものである。

 

 太宰府天満宮には、慶長5年(1600)、京都にいた近衛信尹から、筑前に国替えになった黒田如水への書状が残されており、そこには「宰府の天神よき仕合にあわれ候はんと珍重候」と書き添え、如水の天神様(菅原道真公)とのご縁の目出度さを認めている。また同宮には別に信尹筆の「渡唐天神像」も残されている。Yさんは、信尹の篤い天神信仰の背景に、文禄3年(1594)後陽成天皇の勅勘で京都より九州薩摩坊津へ左遷されたことを挙げ、同じく大宰府へ左遷された道長公の心情への共感があったことを指摘している。

 

 この信尹の父が戦国期政治史に著名な近衛前久(さきひさ)である。この人物は私の住んでいる古河(茨城県古河市)にも関りがある。

(寺尾聰演ずる近衛前久、新春時代劇「信長燃ゆ」)

 前久は、永禄2年(1559)6月、室町幕府を再興するため上洛した上杉謙信と盟約を結び、翌3年9月、関白の職に在りながら越後府中に下り、前月からの謙信の関東出兵を追って厩橋城(群馬県前橋)まで赴いた。翌4年6月の謙信帰還後には、支援する古河公方藤氏のために、謙信の名代として古河城に入り、翌5年2月まで半年間以上在城した。

 

 Yさんのご論文を拝読して、信尹の父前久にも、それなりの天神信仰があったのではないか、という思いがしてきた。

 

 実はこのとき前久と共に京都からやって来た人物に、浄土宗大本山の一つ、京都百万遍知恩寺の法主である岌州(ぎゅうしゅう)なる僧がいた。岌州は先の上洛する謙信と前久との間を取り持った人物であり、宗勢的には、もう一つの浄土宗大本山・知恩院に対抗して関東への教線拡大を企図していた。前久に随伴して厩橋城までやって来たのはそういう背景があった。謙信の帰還に随ってそのまま越後に戻ったとする説もあるが(近衛通隆「近衛通久の関東下向」『上杉氏の研究』)、何よりも前久の従者であり、前久に随って、このとき古河城へ入った可能性が高い(拙稿「中世における浄土宗談義所下大野正定寺について」『そうわの寺院Ⅰ』)

(下大野正定寺外門)

(下大野正定寺本堂)

 古河市内の下大野には、中世には浄土宗の談義所であった正定寺という大寺がある。談義所とは学問所のことで、今でいうならば大学のようなものである。 

 ここは、室町時代の応永24年(1417)に、浄土宗中興の祖で常陸太田にいた師の聖冏(しょうげい)を見舞った白旗派・江戸増上寺の聖総が、帰路に立ち寄り、当時の住持で藤田派の良岌(りょうぎゅう)と論争したことで知られている(大蓮社酉誉聖総書状補闕写、拙稿同上)

 

 この正定寺には南北朝初め康永元年(1342)紀年銘の「空圓善阿送り状」なるものが残されている。

 (空圓善阿送り状)

 

  念願有之候而北野天神様へ一七日参篭致候処に、一七日満足之夜、蒙霊夢、御告 

  にいわく、関東下総大野正定寺ハ、我有縁の地なり、我像を彼地移し、鎮守にて

  勧請すへし、手跡を好み我を信るものを守らんとなり、与夢覚て、かたへを見れ

  ハ、此木像幷自画自賛の影像有、則任神勅、其寺へ送り奉縁者也、相応の社を造

  営して信仰あるへき者也、

     康永元壬午年二月廿五日      京都 空圓善阿(花押)

 

      大野正定寺忍性和尚

 

 内容は、空圓(くうえん)なる人物が京都北野天神へ参篭した時に菅原道真公の霊夢を見、お告げでその時の天神木像と御影像を、正定寺の住持であった忍性へ送るというものである。

 空圓とは京都百万遍にある知恩寺の第8世で、元弘元年(1331)後醍醐天皇の命で疫病退散の百万遍念仏供養会を行い(百万遍知恩寺誌要)、それまでの開祖法然の往生念仏とは異なって、除災招福の現世利益の念仏を説き、浄土宗義の新展開を図った人物である(寺内大吉「鎌倉時代の北野天神信仰に関する一考察」『法然学会論叢』三)。忍性は会津の生まれで、空圓と同様鎮西義祖・良忠の門下にあり、下総匝瑳郡(千葉県匝瑳市・旭市など)に住し当時東国布教につとめた僧である(浄土伝燈総系譜など)。

 

 この文書はいわゆる偽文書である。それは、康永元年への改元は4月27日であり、2月25日付の文書はあり得ないこと。同日は道真公の命日であり、それに因んだ日付であること。空圓はこの時にはすでに亡くなっていること(百万遍知恩寺誌要)、書体や天地を持つ花押は南北朝期のものには見えず、おそらく戦国期以降と見られること。これらのことからこの文書は、後日、同寺伝来の天神木像・御影像に箔を付けるために作為されたものであることが理解できる、なお天神木像・御影像は明治初期の廃仏毀釈で同寺を離れ、現存しない。

 

 では、いつごろ、誰が何の目的で作成したのであろうか。以下の4つの条件があろう。

 

① 正定寺はもともと、浄土宗で最も発展した鎮西義三派のうち藤田派の法系に属するが、歴代住持を記した同寺の「本末帳写」によれば、正定寺は元和9年(1623)に亡くなった岌弁より後は白旗派に転じており、白旗派は知恩寺に対抗していた知恩院を本寺とする系統であることから、その年以後に知恩寺ゆかりの空圓送り状を偽作することは考えにくい。ここから、作られたのは戦国時代から江戸初期の間と推測される。

② 文書は正定寺と知恩寺空圓とのつながりを前提としていることから、歴代住持の誰かが作ったとすれば、知恩寺とつながりのあった人物の可能性が高い。正定寺の「本末帳写」には知恩寺関係の人物が25世岌興・27世岌善・28世岌秀(岌州)・30世幡髄と4人居り、いずれも戦国中期から江戸初期の人物で、文書の年代観にも合致し、これらの可能性が高い。

③ 南北朝期の空圓と忍性がともに鎮西義祖の良忠門下であったことや忍性が東国の出生で下総に居を構えていたことを知っており、とくに同国の忍性を正定寺住持に仮託していることなど、知恩寺の宗門史を熟知している人物である。

④ 天神の顕彰をしていることから、天神信仰を自己の浄土宗思想・信仰の中に深く根差させている人物である、などがあげられる。

 

 「本末帳写」の歴代住持は、近世に入ってから正定寺関係の著名な僧侶を恣意的に羅列したもので、実際に止住したかは確証はない(前掲拙稿)。ただ①②からは、歴代住持の中でも25世岌興以下の4人のうちのいずれか、という可能性は指摘できる。4人はいずれも知恩寺法主となる人物であるが、そのうち岌秀(岌州)のみが知恩寺法主就任後の元亀元年(1570)の住持年次であり、先の知恩寺法主のまま古河来錫している事実から見て、止住とまではいかなくとも、正定寺に実際に関わっていた可能性は否定できない。

 ここからこの空圓送り状は、古河城に拠った岌州によって、永禄4年6月から翌5年2月までの間に偽作されたものではないか、という推測が可能となってくる。

 

 戦国期の古河公方周辺には天神信仰の広まりが認められる。 

 岌州古河在城時の公方足利藤氏は、永禄4年(1561)7月に近隣小山の小山高朝から贈られてきた「天神講式」に礼状を認めている(小山文書)。そこでは青蓮院流筆跡にも勝る逸品で秘蔵するとまで述べている。小山氏のみならず公方家でも深い天神信仰があったことが予想される。また小山高朝の実兄、結城政勝は天文22年(1553)銘の自筆の束帯天神像を残しており(小山市史通史編1)、戦国期の小山・結城一族は同族として天神信仰を有していた。さらに古河公方に敵対していた北条氏康も天文20年(1551)に公方宿老の簗田晴助に提出した起請文の罰文文言に「天満大自在天神」を挙げ(簗田文書)、その痕跡が認められる。当時の領主層の天神信仰は禅宗の影響を受け、武運長久や怨敵調伏を求めたものと言われるが、古河公方やそれを取り巻く関東の大名・領主層に広く天神信仰や素養が存在していたのである。

 

 では、関東での教線拡大を目指す岌州と天神信仰との関係はどのように説明できるであろうか。文書の条件④の問題である。

 送り状にある、北野天神への参篭→夢告というモチーフは諸種の天神縁起類に載せられるが、鎌倉前期の成立の『北野縁起』(承久本)にはすでに認められ、そこでは天神によって「臨終正念、極楽往生」のため「念仏」が勧められている。これが進めば念仏(浄土宗)と天神の習合が予想され、そこには参篭→夢告のモチーフとする天神信仰を媒介に浄土信仰(念仏)が喧伝されて行く必然性があった。今堀太逸氏の指摘に依れば南北朝期以降、浄土宗では神祇信仰を積極的に取り込み、布教手段として念仏聖による天神勧請が頻繁に行われたという(「北野天神縁起・同絵巻と極楽往生」『仏教の歴史と文化』)。当然の展開であった。岌州関与以前にすでに正定寺に天神木像・天神御影像が存在したのは、この念仏聖たちの活動から説明できる。領主層のみならず民間においてもこのような天神信仰の広まりがあったのである。岌州の偽文書作成は、民間に広まっていた天神信仰を知恩寺派に取り込むための手段であったとも言える。これが教線拡大の一端である。

(渡良瀬川の対岸の河川敷にかつての中世古河城があった)

(最後の公方義氏の娘・氏姫が移り住んだ鴻巣御所。初代古河公方成氏も最初ここに館を構えた)

 永禄4年6月に古河城に入った近衛前久には、このような宗教的状況が待ち受けていた。 

 前久自身に、後に嗣子信尹に認められるような天神信仰があったかどうかは、関連史料は何も語ってくれない。しかし今まで見てきた岌州の動向や北関東領主層の天神信仰の存在を考えると、古河においてそのような文化的環境の中にあったことは間違いない。先にも触れたように、永禄4年7月に小山高朝から公方藤氏に天神講式が贈られてきたが、それはちょうど前久が古河城へ入った直後であり、その天神講式を前久も見たことは確実である。藤氏をして「青蓮院筆跡にも一段勝逸」と言わせしめたのは、身近にあった天神信仰のみならず、能書家であった文化人前久の教示があったのではなかろうか。あるいは天神講式の贈与自体が前久を意識し、公方より上位身分の関白近衛前久の古河入城に北関東の領主層が慶賀として贈与したということなのかもしれない。

 

 長年の学友Yさんから頂いたご高論を拝読して、郷里関東の将軍・古河公方の宗教的環境の問題を考えてみた。近衛信尹同様、その父前久にも、知恩寺岌州との関係や関東の宗教状況の中で天神信仰が認められる(のではないか)、というのが結論である。とまれ、このような愚考も「天神さまのご縁」の賜物といえる。

 

 

※以上の文章は拙稿「中世浄土宗知恩寺の関東における門末形成」(『茨城史林』17号、1993)の一部を要摘・改変したものである。