私は、母方の叔父(三生・みつお)の妻であった義理の叔母(靖子)のことが大好きだった。初めて憧れた「大人の女性」であった。

(浅草・仲見世、ネット写真)

(金太郎飴)

 叔母は、東京浅草の生まれで、菓子職人の娘であった。家は浅草界隈で有名な「金太郎飴」を作っていたが、その後商売がうまく行かなくなり、池袋に移ってパン屋を営んでいた。叔父とは池袋に移ってから知り合い、「切ないほどの恋」(叔母)をしたという。ちょうど東京オリンピックがあったころの、日本が高度経済成長の真っただ中にあった時代である。

(中村紘子のコンサートポスター)

 叔母は、江戸っ子気質の、裏表の全くない、さっぱりした気性の人であった。文字通りの浅草の下町娘であった。また、瞳の大きいのが印象的で、そのころ有名だったピアニストの中村紘子さんによく似た、快活で、魅力的な人だった。

 

 母の末弟であった私の叔父は、疎開先の日立で育ち、上の兄を疫痢で亡くしていたため、祖母(母)からとくに溺愛されていた。優秀な人であったが、父(祖父)を終戦後の間もない10歳の時に失ったためか、父性の厳しさを知らず、それゆえ堅実さに欠け、見栄っ張りであった。

 

 叔父は東京の大学を卒業した後、大手の建設会社に勤め、そこで叔母と知り合って結婚した。昭和44年、私が中学3年生のときである。

 

 叔父が、初めて叔母を郷里の日立に連れてきたのは、結婚をする少し前の昭和43年のことである。そのとき叔母はどういうわけか普段着であった。上野駅まで叔父を見送りに行って、発車する間際に手を引かれて飛び乗り、そのまま連れてこられたと、のちに叔母は言っていた。映画のような話である。

 

 二人はその年のうちに結納ということになり、祖母(叔父の母)は独りで池袋の叔母の家に伺うことになった。その時にどういうわけか、私も付いて行ったのである。姉である私の母の代理ということであったのかもしれない。

(浅草・国際劇場)

(SKDのラインダンス)

(SKDのレビュー)

 叔母は、結納が済んだ後、生まれ育った浅草界隈をいろいろと案内してくれた。上野の東天紅で中華料理を御馳走してくれたあと、仲見世を歩き、浅草寺にお参りした。その後、当時は残っていた国際劇場に連れて行ってくれ、人気のあった松竹歌劇団(SKD)の有名なレビューを見せてくれた。コブ付の田舎者の少年を嫌がらずに案内してくれ、思春期の私は、都会育ちの美しい叔母のことがたちまち大好きになった。

 

 私が最初東京の大学に入学した18歳の時に、娘が生まれたばかりの国立(くにたち)の叔父の家に3か月ほど厄介になった。まだ新婚気分の残っている家庭なのに叔母は嫌がりもせずに世話をしてくれた。

 

(18歳のときの私。右側)

(30年前の立川駅前、ネット写真)

 何の用事だったか、生後間もない娘を抱いて、二人で立川へ出かけたことがあった。そのとき、電車の中で隣の老婦人から、「まあ、可愛い赤ちゃん、でも随分若い旦那さんね」と声をかけられたことを憶えている。また駅前で、「昼は何にする」と叔母に聞かれ、目の前に「活け造り」の料亭の看板があったので、これを食べたいと言ったら、「何言ってるの、いくらすると思ってるの」と、大きな瞳をさらに大きくして笑われたことを思い出す。

 

 叔父は優秀であったので、その建設会社では同期の中で1・2位を争うほど出世していった。しかし40代のときに、仕事上のトラブルから、個人的に多額の借金を抱えてしまった。バブルの時代であったことと、見栄っ張りの性格のため、叔母にも打ち明けず、さほどでもない借金が膨れ上がっていったのである。私の父はその返済に自分の退職金のほとんどを出してやった。叔父夫婦は父によって助けられたのである。しかし貧窮した家庭ゆえに、その後叔母は保険の外交員や、歳をとってからは近くのスーパーの清掃員もしなければならなかった。

 

 その叔父も70歳を過ぎたときに亡くなった。

 当時叔母は水戸に住んでいたが、私の妻も、開けっぴろげのこの叔母のことは大好きで、叔母も何事につけ優しく接する妻のことを気に入っていた。

 

 叔母は叔父が死んだあと、乳がんを患っていた。

 清掃員の仕事を辞めて家で休んでいたところを妻と息子と三人で訪ねて行ったことがある。叔父の遺族年金で経済的な心配はなく暮らしていたが、外交的な叔母は家に閉じ籠っていることが嫌で、外で働きたいと何度も口にした。

 

 妻は同じ女として、このような叔母のことを「よく別れずに付いて行ったものだ。自分ならとっくに離婚している」と私に漏らしていたが、訪ねて行ったとき叔母は、「私の生き甲斐は三生さんだったの。今でも大好きで、大好きでたまらない」と、胸の裡を語っていた。妻は帰りの車の中で無言だった。

 

 その翌年、乳がんが再発し、叔母は危なくなった。73歳になっていた。妻は私に見舞いに行くよう促し、私は毎週日曜日になると、車で古河から水戸の病院まで訪ねて行った。

 

 忘れられないのは何度目かの見舞いのときである。叔母は私に向かって、「俊身さん、私、死んだらどうなるの」と、すがるように聞いてきたのである。同じ大きな瞳であったが、下町娘であった若い時分とは違い、心の空いた瞳であった。しかし心構えのなかった私は、叔母の顔をただ見つめるだけで、何も答えることが出来なかった。

 だが叔母は、その沈黙ののち、背中が痛いと呟き、さすってくれと背を向けてきたのである。私は、パジャマの中に手を入れ、叔母の背中を長い時間さすってやったが、それは初めて叔母の肉体(からだ)に触れたことでもあった。あの立川へ行く電車の中で「随分若い旦那さんね」と声をかけられた女盛りの叔母を、その感触を通して思い出すことになった。しかしそこにあったのは、ざらざらとした病人の乾いた肌だった。

 

 死の不安の中にあった叔母は、無言で立ち尽くしている私に触れて欲しかったのだろうと思う。

 

 叔母が、叔父だけが生き甲斐だと語っていたことは、今になって見れば、よく分かる。叔父に借金で人生を台無しにされても、自分の生きてきた証をその叔父と過ごした人生に求めていたのだ、と思う。男女の確かな情愛のみが、畢竟、自分の人生の全てなのだと心し、自分の物語を作っていたのだ、そのように思われてならない。

 

 背中をさすってあげたときに、「心配ないよ、三生ちゃんに会えるんだから」と、どうして言ってあげられなかったのかと思う。

 

 私の人生の中で、長くその生きざまを見てきた人である。思春期の頃には大人の女性として憧れを抱いた人であった。最期の時に背中をさすってあげられたことは、本当に良かった、何よりも良かった。愛惜の哀しみの一方、僅かなりとも長い恩愛に報いることが出来たという、安堵の気持ちになった。

 

  叔母が亡くなったのはそれから間もなくである。

 

 

 この人が生きていた証の一つになればと、昔の思い出を綴ってみた。