労苦の多かった人生の中で、少しなりとも明るい光を与えてくれたものは、やはり縁のあった女性の存在である。

(当時の立命館大学広小路校舎)

 先日、京都の立命館大学時代の同級で、同じゼミにいたY(旧姓)さんから葉書を頂いた。

 卒業した後、若い時分には学会でお会いしたこともあったが、50年近く彼女とは年賀状のやり取りをする程度であった。それも昨年末に、もう歳なので今年からは欠礼するとの葉書を受けていた。今回頂いた葉書は、昨年9月にブログを始めたという私からの連絡と、昨年私が出演したNHKの歴史番組への所感を認めたものだった。

 

 ただ、一昨年には久方ぶりに彼女の声を聴いていた。その年の9月に私の著書を送ったことで返礼の電話を頂き、そのときは近況や懐かしい昔話などを、長い時間にわたって語らった。

(入学の時のクラス写真。立命館大学の清心館前で。彼女は2列目右から3人目、私は3列目の右から5人目、1列目右から5人目が三浦圭一先生。1973年)

 

 Yさんは小柄な人ではあるが、八千草薫や吉永小百合のような可憐で才色兼備の女性である。私たちのクラスの中ではマドンナであり、「高嶺の花」で、誰も手を出さない(出せない)存在であった。少なくとも私にとってはそういう存在だった。

 

 3回生のとき、のちに中京大学教授となるMとともに中世史三浦圭一ゼミの仲間となり、身近な人になった。彼女はよく勉強する人で、三浦先生から見れば「十把一からげ」に過ぎなかった私などとは違って、のちに近江多賀大社の文書を使って立派な卒論を書くような、先生から将来を期待される存在であった。

 

 思い出すのは、卒業後、20代の後半になって法政大学の大学院修士課程を受験したときのことである。筆記試験の次に提出論文に関する口頭試問があったが、そのとき、担当の中野栄夫先生が、どういうわけか最初に一枚の写真を私の前に置き、「この人知ってるだろう」と仰ったのである。その写真は中野先生と彼女が福岡の太宰府天満宮で一緒に写っているものであった。

 

 彼女は大学卒業後、郷里に帰り、太宰府天満宮文化研究所の研究員となっていたが、中野先生は、彼女が担当した太宰府天満宮文書の国指定に際する日本古文書学会の文書展で、会場で一緒に撮った写真だと仰っていた。写真を私に見せたのは、私の提出論文の最後に謝辞として彼女の名前を挙げていたからであった。この写真のために中野先生と私は彼女の話を長々と続けることになり、結果、口頭試問の時間は無くなってしまい、おかげで晴れて合格することができた。

 

 学生時代の思い出は様々にある。他人の「恋心」に関わることなので少々憚れるのだが、Mの下宿に遊びに行ったとき、どういうわけか彼女がそこにいて、こちらは邪魔をする形になってしまい、「お前が来なければ・・」と、あとでMに恨まれることになった。他にも、横恋慕する男を諦めさせるために恋人役をやったこともあった。若い時ゆえの思い出である。

 

(ゴッホ「星月夜」)

 そんな私にも彼女との淡い思い出がある。卒業近くなった時期に、どういうわけか二人で京都国立博物館で開かれていたゴッホ展を見に行ったのである。京都を離れる前のひどく傷心の時期で、絵の中の狂ったような糸杉と月夜の渦に自分の心を投影しながらも、彼女の無垢な表情と柔らかな物言いに心を慰められたことを憶えている。そのことを思い出し、一昨年の長電話の中で話したのだが、彼女は一緒に行ったことすら覚えていなかった。やはり「高嶺の花」だったのである。

 

 卒業後50年してもこのようなつながりがあることは有難いことである。同じ志を抱いて共に青春を京都に過ごしただけでなく、その後も同じ研究者として生きてこられたことが嬉しく、また長く心の励みとなっていた。一昨年著書を贈ることができたことも感無量であった。私にとってはかけがえのない「人生の宝物」である。