(古河公方と川の民、その4)
前回まで、江戸時代に下宮(栃木県藤岡町)で渡船業を営んでいた茂呂氏は、戦国時代には、渡船場での「船役」(通行税)徴収のみでなく、背後の渡良瀬遊水地一帯で「川の民」の頭目として多様な活動を行っていたのではないか推測してきた。、実は、茂呂氏のような「改」行為(関所での税徴収のための検閲)を行う人々の中には、商業や運輸にも関与している例がいくつか認められるのである。
(地図1)
例えば、「金領改衆」(高城胤辰書状写)と見える、下総小金(千葉県柏市)の隣村の同国馬橋(同松戸市)を本拠地とする小沢氏である。小沢氏は、戦国後期に相模玉縄(神奈川県鎌倉市)や下総府川(茨城県利根町)、常陸下妻(同下妻市)など各領主の領内で通行税免除の特権を得たり、常陸佐竹氏(同常陸太田市)の有力庶家の被官となって営業活動を行っていた流通業者である(滝川経昭「戦国期房総における流通商人の存在形態」、佐藤博信『江戸湾をめぐる中世』)。「改衆」の関所は、おそらく東京湾に流れ込む太日川(現在の江戸川)沿いの小金に設けられたもので、そこは後の水戸街道の渡船場となるところでもあった。
またそれ以外でも、近世初頭に、安房鴨川(千葉県鴨川市)の「改衆」であった石田氏が領主里見忠義の荷物を常陸鹿嶋まで船で運んでいる例(石田文書、佐藤同上)や、古河の渡良瀬川対岸の向古河の職商人と見られる公方被官・渡辺氏が武蔵島川沿いの八甫(埼玉県久喜市)で「改」人であったと考えられる例(渡辺与右衛門所蔵文書、佐藤同上)など、関に関わる存在が一方で流通・商業活動に従事している例が見受けられるのである。これは交通・流通業者が本来の姿であって、その能力を背景に関所の「改」人を委ねられたものではないかと思われる。
また「関」や「改」と史料上見られなくても、湊や町場で通行税の徴収行為が認められる事例は関東でもいくつも認められる。有名なものには東京湾に面する品川湊や神奈川湊の事例があり、南北朝時代の末期にそこでは、帆別銭という港湾税が出入港する船に課されていた(円覚寺文書)。古河でも江戸時代の船戸河岸となる場所で戦国時代には船役が課されていた(弘治4年足利義氏条書写)。
(地図2、下妻の領主多賀谷氏の領地・多賀谷領)
(地図3、鬼怒川を挟んで左側が横曽根、東西の道の渡河点に湊があった。ここで通行税の「馬の足」が渡辺氏によって徴収されていた)
(写真1、横曽根側から鬼怒川を眺める、対岸は水海道町。このあたりに湊があった)
また私が調べたものの中には、常陸下妻の領主多賀谷氏の領内の横曽根(茨城県常総市)にいた渡辺氏の例がある。つぎの史料(常総市大輪の石塚家文書)である。
いいぬま(飯沼)の庄、馬のあし(足)の事、前々のことく(如く)其身にまか
せ候、此口の商人とかくの義候はば、ことはって(断って)可申付候、謹言、
天文廿三年
正月廿一日 政経(花押影
渡辺新兵衛尉殿
自下妻
これは戦国時代の天文23年(1554)、多賀谷政経が領内の横曾根の地侍渡辺氏に与えた安堵状である。横曽根は鬼怒川に面し(写真1)、東西を結ぶ街道の交点に位置して(地図3)、多賀谷氏の領国の出入り口に当たっていた(地図2)。「飯沼庄」の「此口」とはそこを示している。
内容は、そこでの「馬の足」なる税を以前のように商人に課してもよい、その権利を安堵する(保障する)ということである。「馬の足」とは、馬各一匹に○○文と掛ける税金で、船から荷を下ろし馬に乗り換えるときに徴収するものである(相田二郎『中世の関所』)。これは川湊での商人にかけた通行税であり、下宮の茂呂家が公方から認められた「船役」と基本的には同じものなのである。先の小沢氏も通行税免除特権を得てここを通行していたようである。この場はまさに関所でもあったのであり、渡辺氏の行為は「改」行為であったといえる。
(寒鮒漁、石川県羽咋湖、ネット写真)
(寒鮒の収獲、ネット写真)
渡辺氏は別の面でも茂呂氏によく似た存在である。渡辺家文書の中には正月の祝いとして領主の多賀谷氏に「こい(鯉)五、ふな(鮒)百」を献上している史料がある。これは鬼怒川や近くの飯沼で獲れた水産物であろうが、渡辺氏と「川」「沼」との関りを何よりも象徴している。渡辺氏は土地に依存する地侍というよりは、「川」「沼」を重要な生産基盤とする地侍であったことを示唆している。「川の民」の頭目かと見た下宮の茂呂氏と共通する性格を認めることが出来るのである。
(地図4、上総椎津と長南の位置)
さらに加えて茂呂氏に似ているのは古河公方家との結びつきを窺わせる性格である。渡辺家の文書の中には、地域の領主の下妻多賀谷氏から拝領した文書の他に、古河公方家から戦功を賞されて拝領した感状(感謝状)が4通も存在する。それも遠く離れた上総(千葉県中部の長南、椎津)での合戦に参加したもので(地図4)、いずれも戦国時代前半のものである。実はこれらの文書は偽文書の可能性もあるのであるが(『関城町史史料編』解説)』、逆に言えば、公方家とつながりを前提に、過去の合戦の記憶を文書として作成したと見ることが出来る。戦国時代の前半では当時の渡辺氏のような地侍身分ではこのような感状はもらっておらず、それ故に自家顕彰で作成したものかもしれない。純然たる武士ではなく「川の民」の頭目として、低い身分であったとすれば当然である。このように考えると、自ら作成した偽文書としても、歴史的真実を反映したものと見ることが出来る。なお合戦の場所が遠く離れた上総であったのは合戦での物資輸送などを担った可能性が考えられる。
横曽根の渡辺氏は、茂呂氏同様、「川の民」の頭目であり、その属性故に川関の「改」人として交通税徴収の権利を有し、一方で交通や運輸に関わって公方家にも仕えていた存在と見なしてよいのではあるまいか。
このように、古河公方の周辺には一般武士とは性格の異なる人々、とくに川に関わって様々な活動をする人々が、公方に止まらず、周辺領主の被官となって交通・運輸に活動をしていた。公方重臣の栗橋野田氏の家臣となる石塚氏や、公方義氏の側近として存在した上野邑楽郡の舞木氏などである。それらについては次に述べてみたい。
※横曽根の渡辺氏については拙稿「常総の二つの渡辺氏」(六浦文化研究11号)の一部を分かりやすく述べたものである。
(続く)






