前回の続きである。
前回は、中世社会独自の社会集団「川の民」の頭目ではないかという予想で、古河公方配下の下野下宮村(栃木県栃木市藤岡町)の茂呂氏の由緒を紹介してみた。「川の民」とは川で魚を捕ったり、船で物資を輸送したり、茂呂氏のように渡船場で「渡し守」をするなど、主に川を生活の場とする人々のことである。
(茂呂氏の下宮にある渡良瀬遊水地の川船)
(江戸時代の渡し守。ライデン国立民族博物館蔵)
今回は茂呂氏の理解を深めるため、茂呂氏が古河公方から拝受したいくつかの文書の話をしてみたい。少し専門的で難しい話である。
茂呂家に伝わって来た古河公方関係の文書のうち、重要なものはつぎの4点である(Ⅰ~Ⅳ、Ⅰは原文書が不明で『古河志』の写し)。それぞれを見てみたい。
これは、公方側が茂呂但馬守へ宛てた文書で、但馬守の「侘事」(要求)を聞き入れて、「悪渡」での「船役」徴収の権利を「屋敷」とともに「預け置く」というものである。年次は干支の「酉」から天正13年(1585)のものと見られる。
「悪渡」とは、古河「悪戸」(茨城県古河市)のことで、思川を挟んだ下宮の対岸にになる(地図2)。「船役」とは、あとで述べるように、この場は渡船場なので、その渡し賃や、通行する船にかけた通行税のことと思われ、「屋敷」とはそれを徴収する施設のようである。川での通行税の徴収と言えば、何よりも中世の時代の関所、とくに畿内の兵庫関や淀津など海岸や河川などに広く設置された経済的「関」を思わせる。
(地図1、戦国時代の関東の河川)
(地図2、下宮周辺の河川と地名)
差出人は、花押(サイン)がつぎのⅡ号文書と同一なので、当時古河公方家を庇護していた小田原北条氏一族で古河に近い栗橋城主(茨城県五霞町元栗橋)であった北条氏照の関係者と見られる。この「関係者」は古河城中にいたと思われる。
受取人の茂呂但馬守は、前回見た近世下宮村の「茂呂市郎兵衛」の先祖で、当時やはり下宮村にいたと思われる。「但馬守」を名乗っていることから武士身分であり、おそらくそれは古河公方から拝領したもので、『古河志』にいう旧臣との由緒を反映している。ただ、茂呂家が近世になって「渡し守」に限定されていくことや、古河公方家が近世初頭に喜連川(栃木県)に転じてもそれに付き従わなかったことから、一般家臣ではなく、地元に根付いた「地侍」クラスの武士ではなかったかと思われる。宛名の敬称が「との」と軽意の平仮名で書かれていることもそれを示している。
なお天正13年(1585)当時の古河公方家は、最後の公方足利義氏が3年前の天正10年に亡くなっており、替わって複数の奉行人たち(御連判衆)が家中を取り仕切り、義氏の幼い遺児・氏姫を支えていた。しかしそれと同時に、北関東に勢力を伸ばしてきた北条氏照の城番が古河城に入っており、さまざまな指揮を執っていた。この文書もその一つである。後で述べるように、城中では、足利家奉行人と北条氏照勢との間に少なからず対立もあったようである。
これは、差出人も受取人もⅠ号文書と同一である。「悪渡」(悪戸)での「船役」(通行税)徴収で尽力があったので「褒美」として悪戸に畠1反を与えるというものである。Ⅰ号文書と同年のものであり、その3か月後の霜月(11月)に出されているので、与えられた「船役」業務で何らかの功績があって出されたもののようである。
これは、Ⅰ・Ⅱ号文書と同じ天正13年(1585)に、「若狭守」なる人物が黒印の人物の意を奉じて、同じ茂呂但馬守に「野綿」(野渡、上の釈文は「野澤」となっているが誤り)の田地を預け置くというものである。奉者の「若狭守」とは北条氏照の奉行人の一人で、天正11年(1583)から古河城番を任されていた間宮若狭守綱信のことである。Ⅰ・Ⅱ号文書と同じく古河城にいた北条氏照勢が出したものということになる。
なお、田地が与えられた「野渡」(栃木県野木町)とは悪戸の北東に位置する場所である(地図2)。
ここで注意しておきたいことは「野渡田地」を公方側が「預け」たと表現していることである。古河公方側は、最終的な領有権は自分自身にあり、茂呂氏をあくまでも「預け」る対象(一時的な保有者)と見なしていた。その点では、1号文書でも「船役」(渡し賃・通行税)徴収権や「屋敷」(徴収施設)は「預置」かれるものとあって、それらは基本的には公方自身の収入や所有になるもの、但馬守は徴収者・管理者であると位置付けられて、共通している。ここから「野渡田地」は「船役」や「屋敷」とセットとなった「田地」とも見られ、そこから職務に対応した土地、いわゆる役料(サラリー)としての土地と見てよいかもしれない。
なお、「預け」の内実は、業務全般を委託した請負制のようなものであったか、徴収権のみに限定したものであったか、この史料だけでは不明である。
これは、大変興味深い文書である。 時期的にはⅡ号文書とⅢ号文書の間の、10月に出された文書で、差出人の花押(サイン)や「芳春院」という差出人名から、最後の公方足利義氏の奉行人筆頭の芳春院松嶺が出したものである。北条氏照勢が出したⅠ~Ⅲ号文書とは異なり、同じ古河城中にいた足利家奉行人勢が出したものということになる。松嶺は同じ芳春院の前院主周興の跡を継いだ住持で、周興同様、財政を担当する公方政所の責任者でもあったと思われる(稲垣泰彦「古河公方と下野」)。
内容は、「舟津屋敷」について今度城中で評定(話し合い)があり、「兵庫」と交換してそなた(茂呂雅楽助)に預けることに決着した。ただ仕事は決められた職務以外のことはやってはいけない。やった場合はそなたの落ち度になる。よくよくそれを理解しておくように、というようなものである。
なお「舟津屋敷」の「舟津」とは、他の史料には「下宮ノ舟津」(石塚照吉由緒書)と見え、下宮の地名、とくに下宮の川又の先端部分の地名である(地図3の「字船戸」は「舟津」が転訛したもの。現地の写真を併せて載せておいた)。
(地図3、船戸の「戸」は「津」の転訛した地名である)
(舟津の先端部分。右が思川、左が旧渡良瀬川)
(舟津の先端部分を後方から見る。堀切で区切られており、先端部分はとくに小高い丘になっている。左が思川、隠れているが右側が旧渡良瀬川になる。通行する船を監視するような立地や地形になっている)
(基部と先端の小高い丘の間にある堀切。丘側から見る。右は思川。かつてはこの堀切に通行する船を引き入れたのかもしれない)
(小高い丘の部分から川又の部分を撮影。左が思川、右が旧渡良瀬川になる。通行する船を監視するには最適の場所)
(基部の箇所にあった盛り土された平場。ここに「屋敷」(船役徴収施設)があったのかもしれない)
(地図4、下宮・悪戸の屋敷の位置)
この文書の内容から分かってくる大事な点は、以下の4つである。
A)
下宮舟津にも古河悪戸と同じく「屋敷」が置かれており、ここでも「船役」(渡し賃・通行税)が徴収されていた。そこは、古河からの佐野道が思川を渡河する渡河点であり、地形から、悪戸の地と「対」になって通行船を挟みこむ関門的様相も窺える(地図4)。ここから、渡船場であると同時に、両側から船の監視や検閲を行う「関」の実態が窺える。なお同じ古河公方の領国に入る利根川沿いの関宿(千葉県野田市)の港でも領主簗田氏によって「船役」が徴収されており、それは「改沙汰舟役」と呼ばれ(弘治4年・1556、足利義氏条書写)、船役徴収が関所と同じように「改」(船舶の検閲)行為を伴うものであったことが分かる。
B)
茂呂氏は、「悪戸屋敷」に但馬守、「舟津屋敷」に雅楽助というように、家族・一族で川関での船役徴収を任されていた。
C)
舟津屋敷の問題には「評定」「落着」するほど城内で意見の相違と議論があったが、それは、Ⅰ~Ⅲ号文書を出して茂呂但馬守を推す間宮綱信など北条氏照の勢力と「兵庫」を推す足利家奉行人勢力との、船役徴収をめぐっての対立が原因であった。松嶺が公方政所の責任者であったと見られることから(稲垣同上)、それは財政問題をめぐる対立でもあったと考えられる。
D)
川関の管理者・茂呂氏の性格として窺える重要な点は、最終的に船役(渡し賃・通行税)徴収業務以外の私的な行為が禁じられていることである。それは裏返して言えば、徴収に付随して、役料としての「野渡田地」(Ⅲ号文書)以外にも、船役徴収に伴う相当の経済的利益があったからと見られる。Ⅰ号文書で茂呂但馬守が「侘事言上」(自ら要求)した背景にはそれがあったと思われる。
などである。
(地図5、香取社の川関の分布。鶴ヶ曽根ー彦名、大堺ー戸崎ー猿股、長嶋ー行徳と、古利根川・太日川の両岸や川又の地点に関が存在した(下記遠藤論文から))
ところで中世東国の川関(特に関銭を徴収する経済関)の詳細な実態は史料不足があってよく分かっていなかった。これまで、川を挟んで両岸、あるいは下宮のように川又にある例として南北朝・室町初期の香取社(千葉県佐原市)の太日川・古利根川の川関が知られてはいたが(地図5、香取旧大祢宜家文書など、遠藤忠「古利根川の中世水路関」『八潮市史研究』4号)※、実態はよく分かっていなかった。また上級領有者は香取社とか鎌倉府・鎌倉寺社とか史料で分かっているが、川関の現地徴収者(管理者)としては鎌倉時代後期の香取海神崎関(千葉県香取郡)の千葉氏一族・千葉為胤(伊豆山神社文書)や、先の「改沙汰」を行った戦国期の関宿(千葉県野田市)領主簗田氏、武蔵鷲宮関(埼玉県久喜市)の鷲宮社神主細谷氏(鷲宮神社文書)、武蔵島川の港津八甫(同久喜市)の「改」(検閲)人・渡辺氏、下総太日川沿いの小金(千葉県小金)の「改衆」小沢氏の存在(佐藤博信『江戸湾をめぐる中世』)などが知られている程度で、景観を含めたその詳細は分かっていなかった。
その点、茂呂家文書から窺える川関の実態は、大変興味深い。最終的な領有権は古河公方に帰属するが、そこは、両岸に対になって立地する川関(悪戸・舟津)+船役徴収施設(屋敷)+船役徴収役人という構成が窺え、とくに近世には渡船業を行うような、「川の民」ともいうべき地付きの武士が徴収役人として実質を担っていた、という事実が窺えるのである。川関の実態を知る貴重な事例の一つと言える。
また公方権力との関りで言えば、船役徴収者を誰にするか、ということで公方権力内部で対立を生ずるほどの重要な経済的問題であり、古河公方権力にとって船役の収益は領国経済に重要な位置を占めていたと推測されることである。前回も述べたように、下宮は北関東の主要河川である渡良瀬川と思川・利根川支流が合流し、下野・上野のヒトとモノが集中する地点である。ここを抑えることが北関東二国からの物流を掌握することにもなる経済上の要地であった(地図1)。小山氏など北関東の伝統的大名層をバックボーンとする関東の将軍・古河公方にとって、存立上極めて重要な地点であったことは間違いない。
従来の研究では公方権力の特質の一つとして「交通・流通機能への依存性の強さ」が指摘されていたが(市村高男「古河公方の権力基盤と領域支配『古河市史研究』11号、佐藤博信前掲書など)、具体的な様相や、北関東の大名層などとの経済的関係性は考察されてこなかった。これはそれを示す貴重な事例なのである。
また何よりも興味深いのは、現地管理者の茂呂氏の実態である。先にも書いたように、公方権力からは「船役」「屋敷」とも「預け」られる存在(=徴収役人・管理者)とされながらも、「侘事」(積極的要求)をしてそれを求めているように、茂呂氏にとって徴収・管理以外の「実入りのある実態」を伴っていたと見られることである。「預け」られるとは、あるいは請負制であったのかもしれない。事実、栗橋の流通商人石塚氏もかつて後北条氏からこの下宮舟津の権利を獲得しており(「石塚照吉由緒書」)、地域の交通業者や商人が渇望する地であった(拙稿「戦国期栗橋野田氏の被官石塚氏について」『茨城史林』31号)。
茂呂家は近世に入ると単なる「渡し守」に限定されるが、次回述べるように、他の例から見て、渡船業や船役徴収に止まらない広汎な活動が想像される。史料には現れないが、それは氏の特性(=川の民の職能)に拠るもので、「実入りのある実態」(あるいは請負制)の源泉である。その点には前回紹介した『古河志』に載る茂呂家の由緒、とくに他の渡し守と違い、背後の都賀郡16ヵ村から渡船の修復・新造費用や、進水儀礼での酒肴の祝儀進上を受けている事実が関わってくる、と考えている。
つぎにはその問題を考えてみたい。
※管見に入ったのもでは他に、慶長6(1609)・7年の身延山久遠寺文書見られる、甲府盆地から富士川が外に出る地点の鰍沢・黒沢の両岸に設置された「改」の口留・役所(関所)がある(、相田二郎『中世の関所』)
今回は論文調で専門的な難しい話を書いてしまいました。ご容赦下さい。