過日、妻から思いもよらぬ「告白」をされた。大喧嘩の末の言葉尻に「私だって学生時代から6年間付き合った人がいたのよ」と、怒りに任せて出たのである。

 若い時分に聞かされていたら動揺もしたであろうが、もう棺桶に片足を突っ込んだ年齢になっているので「ほう、それは良かったな」という感情の方が先にたった。

 

〈子供が生まれる前〉

(結婚間もないころハワイ旅行、成田で、妻26歳)

(ホノルルに着いて)

(オアフ島ポリネシア文化センターで)

(同上)

(ワイキキのビーチで)

(ワイアラエ渓谷で)

 私はその次の男となるようである。

 私たちの付き合いは、最初反対されたものであったが、家に連れて来ると両親や兄もすぐに賛成となった。決して美人ではないが、人柄が良かったのである。激しい気性の私には角の立たない性格の女性でなければ長続きしないと、家族は見ていたのである。

(祖父の葬儀の折り、海辺で。26歳)

(ゴルフ場で、26歳)

(札幌旅行。北大校内で、妻27歳)

(札幌道庁舎前で)

(札幌北大校内で)

(北大ポプラ並木で)

(北大植物園で)

 

〈娘が生まれてから〉

(筑波山で、32歳)

(同上)

(群馬法師温泉で。33歳)

(同上)

(北海道旅行、ニセコの有島武郎記念館で、33歳)

(北海道、然別湖畔で)

(北海道、大雪山黒岳のロープウェィ駅で)

(北海道、日高ケンタッキーファームで)

(日立市の神峰公園で、33歳)

(同上)

(ディズニーランドで、33歳)

(近くの土手で花見、33歳)

 

〈息子が生まれてから〉

(新潟十日町のキャンプ場で、43歳)

(同上)

(槍・穂高連峰の涸沢へ向かう途中で、息子と。50歳ごろ)

(奥日光中禅寺湖畔の菖蒲浜キャンプ場で、50歳ごろ)

(同上)

 妻は誰とも争わない。驚くほど争わない。争いが嫌いというよりも、争う感情そのものが備わっていないのである。他人を憎むこともない。父親似であり、義父はよく「仏様のような人」「太陽のような人」と周囲から言われる人であった。妻はいうならば「観音様」のような人である。いつも穏やかでにこにこしている。長く教員をしてきたが、職場では妻がいるだけで皆さん和やかになると(本人が)言っていた。

(槍・穂高連峰の登山口・横尾山荘前で、50歳ごろ)

(長野・美ヶ原でのスノーシュートレッキングで、55歳ごろ)

 

 しかし最近、私は、その「観音様」とトラブルが多くなってしまった。優しくて誰とも争わないのであるが、時折人使いが荒くなるのである。もちろん申し訳ない顔をして頼んでくるのであるが、朝食を用意した後は「昼と夜はお願いします」と言って寝室で休んでしまう。そのほか障害を持つ息子の問題など、大事なことも私一人に任せることが多くなった。歳で病気がちになり仕方ないのであるが、今抱えている心痛事と重なって疲れ果て、そこで大喧嘩になってしまったのである。

 

 しかし、思わず発した「6年間付き合った人」とはどのような男であったのか、口論の続きでは、某一流国立大学を卒業し大阪に就職したが、長女の自分は、親を置いてまで付いていく勇気がなかった、とまでは言っていた。その後は言葉を濁してしまった。

(尾瀬への途中、三平峠で。50歳ごろ)

(穂高への途中、上高地近くの梓川の河原で。50歳ごろ)

 

 私よりもその男の方が良かったであろうに、というのが今の私の偽らざる心境である。

 40数年も連れ添ってきて、苦労ばかりさせてしまった。自身の仕事を抱えながら、障害のある息子や他の病気の家族の世話、そして激しい気性の上に研究などと家庭を顧みなかった亭主のために、自分の人生をすり減らしてきた。それで「観音様」も病気になり、急に婆さんになってしまった。笑顔もなくなった。

(奥日光・小田代ヶ原のトレッキングで、56歳)

 

 誰しも人生は思うに任せない。しかし「平凡な家庭の幸せ」のみを願っていた妻にとってそれは、思いもよらぬ苦労の連続であった。もう人生の残り時間はそうないと思うと、可哀そうで仕方がない。

 

 本人は、あの時に大阪へ付いて行っていれば、と思っているはずである。床に臥せているときの一方的な喧嘩で、悔しくて悔しくて、思わず口から出てしまった「告白」であったのである。

 

 運が良ければ(私と出逢わなければ)、幸せな人生があったであろうと想うと、もう言葉がない。詫び状にもならぬ慚愧の状である。

 

 

 

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