前回の続きである。
鎌倉はよく「武士の都」といわれるが、本来、関東の都としてふさわしい場所だったのだろうか。
(鎌倉遠望、ネット写真)
鎌倉は古代には相模国鎌倉郡の郡役所(郡家)があった。今小路西遺跡の発掘で分かっている。三浦半島への古東海道も通っており、頼朝が鎌倉に入る前の段階にも、東京湾の六浦(横浜市金沢区)からの道(六浦道)が機能し、それなりの重要な場所であったことは確かなようである。
源氏との関りは、祖の頼義が屋敷(「鎌倉之盾」)を構え、前九年合戦の戦勝記念に由比郷に石清水八幡を勧請したことが知られる(吾妻鏡)。頼朝はそれを「御嚢跡」(先祖ゆかりの地)として、内乱初期の治承4年(1180)10月に鎌倉に入った(吾妻鏡)。鎌倉は「鎌倉城」とも「要害」とも史料(玉葉、吾妻鏡)には出て来るので、祖先ゆかりの地であると共に軍事的意図で鎌倉を選んだようである。
(六浦道)
(大倉幕府・鶴岡八幡宮と若宮大路、大路の脇に宇津宮辻子幕府と若宮大路幕府)
(鶴岡八幡宮一の鳥居から見た若宮大路、ネット写真)
頼朝が鎌倉に入ると、東西の六浦道と滑川が流れる北東の大倉の地に御所や役所、鶴岡八幡宮が置かれ(大倉幕府)、御家人たちの宿所も設けられた。その後、鶴岡八幡宮と由比が浜の間の平坦地に南北のメインロードの若宮大路が作られ、幕府もそこに移転した(宇津宮辻子幕府、若宮大路幕府)。土地が狭いので、有力御家人の屋敷や寺院は「谷(やつ)」と呼ばれる谷あいの地に作られ、周辺地域との交通の利便のため鎌倉七口と言われる切通しの道が開かれた。商業地も出来てきて大町・小町・米町などが若宮大路周辺に発達し、由比ガ浜の浜地にも拡大した。狭い鎌倉の地を最大活用して武家の都が出来て行ったのである。
(海と山に囲まれた鎌倉の地形と出口の鎌倉七口、ネット図)
幕府滅亡後、鎌倉には室町幕府の出先機関の鎌倉府が置かれ、足利氏一族(基氏・氏満・満兼・持氏)が鎌倉公方として関東一円の支配を任された。その時期の鎌倉公方の御所や役所は、元の東西の六浦道の奥の谷に戻り(浄妙寺東隣に御所)、家臣たちもその周辺に屋敷を構え、商工業地は以前からの若宮大路周辺や浜地に存続・発展したようである。
しかし鎌倉府が終わった永享の乱・享徳の乱の15世紀になると、発掘成果では、大型竪穴(倉庫)に代表される建物址は消え、銭もその時代に流通した洪武銭・永楽銭は認められず、以前の都市的要素はなくなってしまうという(河野真知郎『中世都市鎌倉』)。公方が鎌倉を去った後も大町や鶴岡八幡宮付近では町衆の活動は見られるが(藤木久志「鎌倉の祇園会と町衆」)、戦国時代になると相模の中心は後北条氏の小田原に移り、関東の「武士の都」としての継続はなかった。
これらから見ると、鎌倉は、古代から一定の政治的・交通的要地であったが、頼朝が幕府を開いたのは軍事的な要害の地だからであり、以後の幕府時代には、その狭い場所に幕府の諸機関や御家人の邸宅・寺院が「押し込め」られて設定され、いわば政治主導で「武士の都」が作られていったようである。
商工業の発達は、発掘される町屋遺構や中国陶磁器、国内産壺・甕類の膨大な量から見て「都」に相応しいものであったが、鎌倉に集住する武士・寺院・都市民の需要に供する性格、いわば都・鎌倉の存在故に政治的に「引き寄せられた」性格のもので、関東各地への集散的性格はなかった(鎌倉は西からの物資・情報、東からの人(武士)のブラックホール(河野前掲書))。幕府が倒れた後の鎌倉府の機関が元の山合いの地に戻ってしまったのも、また鎌倉府が滅びた後は一地方都市(宗教都市)としてしか存続できなかったのも、鎌倉が権力主導の政治的都市であったことを物語っている。鎌倉は幕府や鎌倉府という政治権力があってこそ「都」として存続し得たのである。
(権門体制論の図、ネットから)
鎌倉が政治t的都市であったとすると、日本全体ではどのように位置づけられるであろうか。
中世日本の国家を考える場合、伝統的に二つの見方がある。日本全国に一つの国家があったという前提で、国家の諸機能を有力勢力(権門とよぶ)が分有・補完し合って統治してきたという見方(黒田俊雄)と、京都の公家政権と関東の武家政権が分立・対立していたことを重視する見方(佐藤進一)である。前者は学術的に「権門体制論」と呼ばれるが、京都の公家(内政・外交)、大寺社(真言・天台など仏教・祭祀)、鎌倉の武家(軍事)の各権門が協力‣補完し、その頂点に天皇が立って「日本国」を統治していたというものである。鎌倉幕府はあくまで国家の軍事部門の一機関に過ぎないという見方である。
それに対し、後者は関東の武家政権として独立性を認めようというもので、「権門体制論」に対して「東国国家論」とも言われる。鎌倉幕府が最初関東での反乱から始まったことや、京都の後鳥羽上皇を討った承久の乱、その後幕府が朝廷の皇位継承に主導的役割を果たしてきたことをみれば、国家の一機関に過ぎないという権門体制論には従えないということである。過去には平将門の乱で将門が坂東国家を樹立したという歴史的前提もあった。京都政権に対する独立性を重視する見方である。
二つの考えとも、中世国家に対する両面からの見方で、長く対立しており、二者択一できる単純な問題ではない。ただ根底にある違いは、中世社会にゆるぎない一つの国家があったと見るか、いくつもの国家に分裂する可能性を持った状態にあったと見るか、という点だと思う。その場合私は、一つの視角として、都とされた場所が基本的にどういう性格をを持っていたのか、独自の国家となるだけの性格や力量をその都が持っていたのか、という観点も重要ではないかと考えている。
京都の政権に対し、関東が明確に独立性を主張したのは歴史上3回あった。最初は平安中期の平将門の乱の坂東国家樹立であり、2回目は1180年に頼朝が平氏政権に反乱を起こし、京都の後白河院から東国支配権を追認される1183年までの東国政権の時代、3回目は戦国時代の15世紀後半、鎌倉公方足利成氏が室町幕府・関東管領上杉氏と対立し、古河へ移り立てた古河府(古河公方)の時代である。
(関東の二つの内海、二大河川水系と鎌倉の位置)
平将門や古河公方足利成氏の作った(作ろうとした)都は北関東の岩井や古河である。都は、関東の経済・交通の基幹である関東の二大河川交通(旧利根川水系と常陸川水系)の最も近づく場所で、奥州からのメインルートの奥大道も通過していた。古代の蝦夷戦争でも軍需物資輸送で重要な位置を占め、北関東全域や東北との経済的つながりを密接にもった場であったのである(拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』)。政治的都市ではなく経済的都市の性格が強い。
一方頼朝が依拠した鎌倉は、関東全体から見れば南関東のはずれであり、交通的には相模湾に面するのみで、関東全域を後背地とするには優位性がない地点である。鎌倉が幕府・鎌倉府滅亡以後に寺社の小都市としてしか生き残れなかったのはそれ故で、鎌倉が政治的都市であった所以である。
(関東の2つの都の鎌倉と古河。鎌倉は西国の国家(王朝国家・公家政権・室町幕府を補完する都であり、古河は東北・蝦夷社会を背景とした東国国家の都)
鎌倉は「武士の都」であったが、それは、関東全域を取りまとめる経済的な場ではなく、先の権門体制からいえば、京都の権門に協力する軍事権門の居住地(まさに「武士の都」)であり、政治的都市であったのである。
鎌倉初期に東国政権を作ったとはいえ、すぐに頼朝は後白河法皇に近づいてそれを認めてもらい、さらに右近衛大将・征夷大将軍に任官し、京都の国家の一部門に自分を位置づけた。それに対し将門は、東北を含めた朝貢国家・坂東の「新皇」として独立性を明確にし(前掲拙著)、古河公方成氏も約30年間、室町幕府に対抗し続けた。そこには「経済的都市」を都とする背景があった。
京都との対抗関係で極論すれば、将門・成氏が作った「都」は京都の政権に対峙・対立する都、いわば「東国国家の都」であったが、頼朝の作った「都」は京の政権に仕える武家の都、京都の国家体制に内在する都、すなわち「権門体制の都」でしかなかったのである(拙稿「戦国期東国の首都性について」『北関東の戦国時代』)。
「武家の都」の鎌倉は、本当の意味では「関東の都」ではなかったと私は考えている。







