以前のブログ(京都・鎌倉・古河)で、京都での学生時代に、京都に家のある友人から「茨城ってどこにあるの」って言われ、鎌倉の後輩からは「茨城って田舎でしょう」って言われ、北関東人として少々悔しかった思い出を書いた。

 

   確かに歴史を振り返れば、長く都であった京都からば関東は文化の遅れた田舎と見られ(これを「都鄙」という)、幕府の所在地で寺社文化の栄えた鎌倉からは北関東はまた「田舎」と見られていた。しかし、そのような歴史的前提があるにせよ、友人たちの見方の根底には、学校教育で刷り込まれた「中央ー地方」史観があり、歴史的には対等関係で見るべきところに、無意識のうちに優越ー劣等の価値観が刷り込まれてしまっているのだと指摘した。

 

 大学を卒業してほぼ50年、研究テーマの一つに平将門の乱や古河公方を取り上げ、北関東の独自性を考えてきたのは、長くこの地域に住んできたというだけでなく、そういう学生時代の悔しい思い出が背景にあったのかもしれない。

 

(京都)

(鎌倉)

(古河)

 古河(茨城県古河市)やその周辺はやはり特別な場所である。平安時代、この地域で活動した将門は、京都の王朝国家に対して「坂東国家」の創出を行い、戦国時代、享徳の乱で鎌倉から古河へ移った初代公方成氏は、乱の最中は京都の室町幕府に反抗し、京都の改元に従わないなど関東の自立性を示していた。将門は本拠の岩井(坂東市岩井)に都を作ろうとし、成氏も古河を御座所として、いわば古河を関東の都とした。

(古河の位置)

 古河と岩井は近く、茨城県の西部のはずれであるが、関東全体から見れば中央に位置し、都にするには相応しい位置にある。鎌倉には、鎌倉時代やその後の南北朝・室町時代には将軍や鎌倉公方が居て、いわば鎌倉を「関東の都」としてきた歴史があるが、鎌倉を南関東の政治の中心地とすれば、古河や岩井は北関東の中心地と見ることもでき、関東の「中央」の位置を両地が競ってきたと見ることもできる。列島全体の歴史を見れば、中世には京都ー鎌倉ー古河の「都」の三重構造を持っていたということもできるのである。また、さらにその外側に東北地方の存在があり、そこには平安時代には奥州の都・平泉があった。さらにそれより北の北部東北や北海道には、国家に服さない蝦夷(エミシ)社会があって、その「富」が各地の都・王によって収奪されるという複雑な関係があった。

 

 「都」が成立する条件はなんであろうか。

 王権の強い古代社会では、エジプトがそうであるように、王の住まうところが「都」であるが、次第に歴史が発展すると、王の存在だけで「都」が継続できるわけではない。一時的に「都」とすることができても、経済・交通の要地を抑えなければ王も都も存続し得ない。民衆の経済力が高まってくれば猶更で、経済・交通を抑えることが国家維持の要諦になるからである。京都はもちろんであるが、鎌倉も古河・岩井周辺も、その観点で見れば「都」「王」に相応しい場所なのである。

 

(中世の列島社会の内海と海上交通形態(市村高男「日本中世の港町」『港町のトポグラフィ』)

(経済の中心地京都。将門の平安時代には、京都は天皇・貴族の都であり、その生活物資は、内海と河川・陸上交通を通して全国から集まった)

(将門の目指した坂東国家。石井(岩井)が都であり、内海と河川・陸上交通を意識して都を作ろうとした)

 

 経済・交通の中心性というと、京都と古河周辺(古河と岩井)は共通点がある。京都は平安時代、天皇や貴族のために全国から税や物資が集まった。そのルートは、九州や中国・四国地方など西日本からは、瀬戸内海の海運を利用し、今の大阪湾である大阪の内海から淀川を経て、陸上交通(山陽道)の接点である山崎(京都府山崎)に陸揚げし京都へもたらされた。また日本海側の山陰・北陸地方や山形・秋田・津軽・北海道からのルートは、若狭湾の内海を経て琵琶湖水運で大津(滋賀県大津)へ陸揚げし京都へ、また岐阜・長野からのルートは東山道の陸路で、また東海・関東地方、東北の太平洋側地域のルートは東海道の陸路や太平洋海運と伊勢の内海から京都へもたらされた。いずれも海路・陸路を組み合わせており、とくにそれらの物資が京都に入る山崎と大津が交通の要衝として重要であった。

 

 実はこの構造と平将門の坂東国家の在り方はよく似ているのである。古代や中世の関東の交通や経済の構造は、二つの内海とそこに注ぐ二大河川が重要であると指摘されている。二つの内海とは、今の東京湾(武総の内海)と、昔は大きな内海であった今の霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼などの湖沼群(常総の内海)である。二大河川とは、それぞれに注ぐいくつもの河川で、東京湾の場合は古利根川・墨田川・荒川・江戸川など(旧利根川水系)で、霞ヶ浦などに注ぐのは、江戸時代初頭の「利根川東遷事業」以前に、古河・岩井などの湖沼群を水源とした常陸川(今の利根川の中下流の部分、常陸川水系)である。他に鬼怒川や小貝川などもある。これらが北関東では最も近づく地点が古河や岩井である。

 

 この二つの内海・二大河川水系と東北・蝦夷社会からの陸上交通(東海道と奥大道)と交わる地点を、将門は坂東国家創出のときに重要視した。下総国相馬郡大井(千葉県柏市)と同じ下総国猿島郡磯津橋(古河市磯部)である。それぞれを先の京都近郊の要地の山崎と大津に擬えられているのである(『将門記』)。

 

 全国の物資の集中という交通や経済の面から見れば、京都や山崎・大津は列島全体の「都」とその交通要衝であり、東北や蝦夷社会の物資が集まる点では岩井や古河・大井は関東の「都」とその要衝なのである。

 

 経済が発展してくると、王が住み、都が出来る場所というのは、経済の中心地を優先するようになる。関東を一つの地域として見れば、古河や岩井は中心性を持つ場であり、そこに関東人が都を作ろとするのは理に適ったことなのである。「新皇」将門や関東の将軍である初代古河公方成氏が、京都の政権(王朝国家や室町幕府)に反旗を翻して関東の独立性を主張し得たのは、そういう場所を抑えていたからなのである。

 

 この相似性と対立性は、日本列島に「二つの国家」が存在し得た地政学的証明でもあり、「中央ー地方」などという貧しい歴史観では到底捉えきれない重大な問題なのである。

 

 問題は鎌倉の位置である。鎌倉は相模湾に面しているとはいえ山に囲まれた狭い場所である。防御には優れているが、京都や古河・岩井などような広域の経済・交通の中心性は持たないのである。なぜ鎌倉に将軍がいて、関東の中心として政治を執ったのか。これを経済・交通問題とからめて論ずるのが私の問題意識である。