いつの間にか70歳になってしまって、自分はなぜ生まれてきたのか、意味のある人生だったのか、などと、考えることが多くなった。
(上野千鶴子さん)
ものの考え方、生き方で、若い時に共感したというか、妙に納得したのは社会学者の上野千鶴子さんの本に書いてあったことである。何という本か、今となっては思い出せないのだが、そこでは上野さんは若い時に、セックスとマージャンに明け暮れ、そのなかで至ったのは、「人生は死ぬまでの暇つぶし」であり、その中で「学問は論理的で、唯一「スカッ」とするもの」だからやってきた、というようなことだった(と思う)。
私自身はさほど意識してはいなかったが、「人生は死ぬまでの暇つぶし」というのは、どこかで共感するものがあった。また学問は唯一「スカッとする」というのも、歴史学の研究者を志していたので、これも共感した。とくに上野さんの女性学の著書は男として「目から鱗」であった。長い年月が経っても、上野さんの言葉を思い出すのだから、私自身の人生観の本質を衝いていたのだろうと思う。
その後、障害のある子供を持って、多くの葛藤を持って生きてきた。学問を継続してきたのは一種の逃避でもあった。上野さんのいう「スカッとする」ことに逃げ場を求めていたのである。
(稲盛和夫さん)
京セラの創業者の稲盛和夫さんは、その著書『生き方』の中で、人間は何か「宇宙の意思」と呼ぶべき大きなものによって「生かされている」と書いている。宇宙誕生のビッグバンはその「意思」によるもので、人類誕生に至る宇宙の進化はその力のなせる業だと考えている。そして、人が生まれるのは「宇宙の意思」によって与えられた「魂」を磨くことにあり、人生の目的は「生まれたときよりも少しでも美しい心になって死んでいくこと」だと言う。
上野さんの言葉の背景に唯物的な考え方があるとすれば、稲盛さんは唯心的な考え方である。哲学の両極である。
障害を持っている子と一緒に生きてきたので、いつも「運命」というものを考えさせられた。
稲盛さんは、「運命」は必然であるが、人間はその前ですべてが無力であるわけではないと言う。運命以上に「因果応報」が勝り、そこには他者に尽くす「利他」の行為が左右するのだという。
稲盛さんの考えは、宗教者のそれではない。子供時代の宗教環境が影響しているとはいえ、経営者としての人生から得た哲学であり、経験則に根差した考えである。唯物論・唯心論のどちらに与するかは別にして、稲盛さんの哲学には、私自身の内省からも妙に得心している。
科学的・合理的思考を若い時から訓練してきた私にとっては、上野さん的な考え方は「骨格」を形成している。一方でその後の人生の経験で稲盛さん的な考え方は「心」を形成してきた。
70になって、さあこれからどうする、どう死んでいく、という模索の中で、稲盛さん的な考え方はますます大きくなっている。

