(平将門の乱、その8)
前回のブログでは、今まで将門の乱ではまったく知られていなかった下総国猿嶋郡司の安倍t忠良なる人物を、その出身の猿嶋安倍氏の経営と見られる茨城県古河市の川戸台遺跡の例から紹介した。
(古河市川戸台遺跡)
猿嶋安倍氏は伝統的に東北の蝦夷社会との交易に関わる氏族で、住んでいた下総国猿嶋郡水海では郡の長官である郡司である一方、船・馬を使った交通業や製鉄業、牧畜や窯業などを行う多角的経営者であったとした。こういう在地の有力者のことを研究上では「郡司富豪層」と呼んでいる。
猿嶋安倍氏は、桓武天皇の「墨縄」の時代には、「糒」(ほしいい)などの兵士の食糧や武器を陸奥鎮守府へ送る役割を果たし、鎮守副将軍にもなり国家の蝦夷(エミシ)戦争へ協力した。また次の時代の、蝦夷が起こした出羽(秋田県)の元慶の乱では、やはり国家に協力して東北へ派遣される兵士の鍋作りも行った。こういうふうに、関東の地元に根を張り、蝦夷社会との交易をしつつも、一方で東北で戦争をしようとする国家へ協力していく存在であった。
(平将門(加藤剛)の最期。将門は貞盛の放った矢がこめかみに当たり落命した(NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」)。この情報を安倍忠良は上野国府に伝えた)
将門の時代の安倍忠良はどうであろうか。桓武平氏一族との関係では、天慶3年(940)2月の将門の敗死のときにその情報を将門の叔父・平良文から通報され、それを上野国府に伝えたと史料『大法師浄蔵伝』の奥書に出るのみである。しかし『将門記』を改めて見直してみると、その痕跡が現れてくるのである。
(承平7年(937)8月の将門一家の逃走ルート。妻子は水海に、将門自身は古河に逃げている)
まず一族内紛のピークである承平7年(937)8月の豊田・猿嶋合戦である。これは叔父良兼に豊田郡の合戦で敗れた将門が妻子をつれて猿嶋郡に逃れる展開になるが、将門はその妻子を「広丈江」(ヒロタケノエ)の船に隠し、自身は「陸閑奥岸」(クカカノヲクノキシ)に逃れた。私の広域猿嶋郡説では「広丈江」は郡役所のある水海の港であり、「陸閑奥岸」は川戸台遺跡のあった古河の港である(ブログ「『将門記』の小さなコペルニクス的転回」)。関東の二大水系の接点となる交通の要衝であり、猿嶋安倍氏が伝統的にそこを支配していた。そして『将門記』では、妻子は「注人」(密告者)があって広丈江で、良兼方兵士に捕らえられ、実父・良兼の本拠地の上総に連れ戻されるのである。
この「注人」(密告者)とはいったい何者であろうか。今までの狭域猿嶋郡説では、「広丈江」と「陸閑奥岸」をごく近くとし、それも豊田郡と猿嶋郡の間の飯沼の出来事としていたため、とくに注意されてこなかった。しかし私の広域猿嶋郡説に立てば、具体的な人物が浮かび上がってくるのである。「広丈江」は猿嶋郡役所のあった水海の港であり、それを良兼方に密告したのは、なによりもそこの郡司の安倍忠良であった可能性である。『将門記』に残る痕跡とはこのことなのである。
(今は干拓されて水田なっているが、将門の時代には深い水深で、港があった)
(地図の「郡津」とあるところが当時の港があった場所。「常陸川」が「広丈江」)
(飯沼。@年の大雨で沼状の姿に戻ってしまった。江戸時代に干拓されたが、将門時代には浅い沼になっていた)
なお、重要なポイントである「広丈江」の位置について、私が「広丈江」を従来のような飯沼でなく郡役所のあった水海の港としたのは、広域猿嶋郡に依る考え方のほかにも別な根拠がある。
『将門記』では、将門が妻子を隠した船は「雑物資具三千余端」(三千余端(反)は布にすると2340m× 2.7mで相当の重量)を積み、それも7・8艘の船団を組んでいたと記しており、複数の大船の停泊であった。船は、前回書いた、古河渡しの韓梶(オール)付きの準構造船のようなものと考えられる。狭域猿嶋郡説の飯沼の入り江という見方は、将門時代の飯沼はすでに「沼化」が進んで浅くなっており(村上慈朗「河川流路の変遷から見た古河地域」『古河の歴史を歩く』高志書院)、吃水の深い準構造船が航行や停泊するには不可能であったことである。一方水海の港はのちの戦国時代にも水海城の港として継続し、また海や河川に面する古代の郡役所は「郡津」といって港機能をもち、それも各地の郡で広く見られたのである。将門妻子の隠れた、船団を組んだ船の停泊場所は郡役所・水海の港であったことは確実である。
では、将門が妻子を水海の港に隠し、自身は古河の港に隠れた、それを郡司・安倍忠良が良兼方に密告したということはどういうことを意味するのであろうか。
港などの交通の要衝の町場は、古代や中世には「アジール」と言って、権力者も立ち入れない治外法権の性格をもっていた。だから将門はそこに逃亡したということがまず頭に浮かぶが、また将門が自身の船舶を停泊させていたように、その港を使用していた。これは、たまたま船を停泊させていたのではなく、父良持の代から豊田郡・猿島郡に兵(つわもの)として大きな力を持つ将門が、猿島郡の郡司・安倍忠良の上に立ち、港に何らかの権利も持っていたからと見るのが自然である。それは古河の港も同様であったであろう。
また良兼は「下総介」という国司(介は二等官だが大きな実権を持つ)の立場であり、当時は猿嶋郡など管郡の郡司の任命も左右しており、郡司・安倍忠良の上に立つ立場であった。簡単に言えば、今の県知事(厳密には副知事)と市町村長の関係で、それも任命権をもったような関係である。
(「郡司富豪層」の安倍忠良)
(兵(つわもの)の平将門)
(兵(つわもの)で国司の平良兼)
ここに水海・古河の港やそこの交通・流通の権利・「富」をめぐって、郡司・安倍忠良ー兵・平将門ー国司・平良兼、という三者の関係が想定できるのである。そしてその関係は、少し難しく言えば、安倍忠良は「郡司・富豪層」という在地を支配する立場の第一次支配権、平将門は「兵」(つわもの)の武力による第二次支配権、そして平良兼は「兵」の性格とともに国司という上級の権力の第三次支配権とでもいうものではないか、三者の権利が重複していたのではないか、と私は考えている(拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』)。
都市は一人の領主が支配するのではなく、複数の周辺領主を含めた共同統治の場だということが、中世の東国史研究では明らかにされている。鎌倉幕府の鎌倉にも将軍頼朝のもとに関東の多くの御家人が館を構えていた。また交通や流通の要であるため、現代でも、大企業やそれに伴う金融機関など多くの資本(富)が集中し、そこにいくつもの権力が関わっているのは、今の東京を見れば当たり前に分かる(各区長から都知事、国会議員・総理大臣まで。軍事・警察の防衛庁や警察庁もある)。本来資本(富)の集まる都市というのはそういう性格のものなのである。
古河は関東の二大水系の接点に位置するように、戦国時代までは関東を取りまとめる交通・流通の要であった。戦国時代には関東の将軍・古河公方の御座所ともなり、各地の武士が集まる関東の「都」でもあった。今の東京であったのである(ブログ「京都・鎌倉・古河」)。その前身の場所に三者が関わらないはずはないのである。
(古河の位置。猿島郡にあり、関東の交通・流通の中心地)
(古河公方足利政氏)
(古河公方の館の一つ・鴻巣御所跡)
古河・水海には三者が重層的に関わっていた。猿嶋郡に逃亡してきた将門一家に対し、郡司安倍忠良が妻子の居場所を良兼方に知らせるのに「通報」ではなく「密告」という形を取ったのは、そういう背景があったのである。
将門と叔父良兼は猿嶋郡のこういう場所をめぐって争ったのである。そしてそこにはもう一枚、安倍忠良が関わっていたのである。これはあの「女論」の問題の秘密を解く鍵なのであるが、そのことは次回にお話ししたい。
※この話の詳細は拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』(高志書院)に詳しく述べた。参照されたい。
(続く)











