(平将門の乱、その7)

 

 

(NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の平将門(加藤剛)とその妻(真野響子))

(桓武平氏一族による蝦夷社会の「富」収奪と輸送ルート)

 

 前々回のブログ(平将門の乱(その6「兄弟は他人の始まり」))で、平将門の「女論」は、単なる女性問題ではなく、背後に当時の京都の王朝国家の東北経営、とくに蝦夷(エミシ)社会からの「富」(馬・砂金・毛皮など)の収奪に関わった問題ではないか、と書いた。収奪・輸送を担当した桓武平氏一族の協力体制とその破綻が背景にあったのではないか、と一族の地理的配置から自説を述べてみた。そしてそこには、『将門記』には登場しない、下総国(茨城県)猿嶋郡の郡司・安倍忠良なる人物が深く関わっていたのでは、と最後に触れておいた。その点は次回に詳しく述べたいが、今回はこの猿嶋安倍氏について話ししてみたい。

(関東の二大河川水系と猿嶋郡の位置)

(二大水系の接点の古河(川戸台遺跡)と水海(羽黒遺跡))

(羽黒遺跡の現状、この付近に安倍猿嶋氏が住んでいた)

 

 いままでの将門の乱研究ではこの人物・氏族は全く研究されてこなかった。

 

 乱の中で、猿嶋安倍氏がはっきりと登場するのは一か所のみである。以前のブログ(「平将門の乱ー安倍忠良という人物ー」)で書いた、将門が敗死した際、その情報を上野(群馬県)国府に馳馬で伝えた「安倍忠良」なる人物である(『大法師浄蔵伝』奥書)。この人は猿嶋郡司と見られ、郡役所のあった茨城県古河市水海の近くに本拠があった(羽黒遺跡付近)。旧姓を「日下部」といい、約150年前には、祖の安倍猿嶋臣墨縄が、関東の二大水系の接点に位置するという地理的条件から、蝦夷戦争の軍需物資輸送を期待され、桓武天皇の前の段階に、都の高貴な貴族の「安倍」姓をもらった(ブログ「あれは天啓だったのだろうか?」}。そしてその直後の桓武天皇による第1次の蝦夷戦争では鎮守副将軍にも抜擢され、蝦夷(エミシ)の首長アテルイと戦うのである(『続日本紀』)。猿嶋安倍氏は一介の「日下部」という地方の有力農民からここまで成長したのだ。しかし墨縄はアテルイに敗北し、その責任をほぼ一身に背負わされ、史上から姿を消していく。その理由の一つに、蝦夷社会との交易、さらに都への輸送に関わる商人的性格があったのではないか、と述べた(ブログ「アテルイと墨縄は仲の良い商人同士だった?」)。もともと日下部は「津」(港)に関わる部民であり、日下部氏の時代からそういう性格を持っていたのだろう、と思う。

 将門の時代の忠良に同様の性格があったかどうかは不明であるが、本拠の水海周辺が関東の二大水系の結節地に位置するという地理的位置からして、氏の伝統的属性であり、おそらくそのような性格を持っていたと推測して間違いないと思う。

(古河・川戸台遺跡の位置)

 ところで、8世紀後半の安倍墨縄の時期と、忠良が登場する将門の乱の9世紀前半の時期のちょうどの間の時期に、この猿嶋安倍氏に関わると思われる考古学的所見があるのである。平成21年に発掘調査された古河市川戸台遺跡である。遺跡は古代製鉄・鋳造遺跡で、東日本最大級と言われる。今の製鉄・鋳物工場である。

(川戸台遺跡の航空写真。道路状の調査区域。向うに渡良瀬川が見える)

(川戸台遺跡の調査状況)

(両脇の「韓梶」(オール)で漕ぐ準構造船をかたどった埴輪、ネット写真)

 

 川戸台遺跡は、「川戸」(「川津」の転訛)の地名から分かるように、津(港)があった場所にあり、古河市を流れる渡良瀬川の港の背後に営まれていた。古河は、奈良時代には万葉集東歌に「許我(古河)の渡りの韓梶の・・」と謡われ、大型船舶(「韓梶」=準構造船)も就航する地域でも重要な港があった。「古河の渡り」は関東の二大水系のうち、東京湾に流れ込む旧利根川水系に位置し、蝦夷戦争に加わった安倍墨縄は、関東の西側から集まる「糒」(ほしいい、アルファ米)や武器などなどを、ここから一方の常陸川水系の起点の水海まで陸路・奥大道で送り、そこからまた水運を使って関東の東側へ、さらに陸奥鎮守府へ送ったと思われる、川戸台遺跡一帯は水海と一対になる重要な港なのである(ブログ「あれは天啓だったのだろうか?」}

(発掘された鉄鍋鋳型など。膨大な量の全体の一部)

(製鉄炉には竪型炉と箱式炉があったが、川戸台遺跡では竪型炉が使われた)

(鋳型の破片。性格には片口の付いた鍋で、製品は多賀城などで出土している(右))

 川戸台遺跡では、わずか400平方メートルの調査範囲から、個体数400個以上にもなる膨大な鉄鍋の鋳型が出ている。古河は水海と同様、古代には下総国猿嶋郡に入る(拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』)。遺跡の年代は9世紀半ばから後半と見られ、経営者は、猿嶋郡に入ることから、水海周辺に本拠を置いた郡司の猿嶋安倍氏が有力な候補である。とすればこの遺跡は、奈良時代末期の安倍墨縄と平安時代中期の平将門の乱の安倍忠良との間をつなぐ、猿嶋安倍氏の貴重な考古資料ということになるのである。

 鋳型から作られた鉄鍋は、製品が多賀城や秋田城など蝦夷征討の軍役所から出土しており、今までの研究では蝦夷戦争で派遣された軍団兵士の装備品と見られている。兵士たちは野営をしながら戦うので、そのための調理用の鍋である。兵士の食糧の「糒」(ほしいい、アルファ米)を煮炊きしたのであろう。

(軍団兵士の備品に鉄鍋がある。福島県文化財センター白河館まほろん展示写真)

(鉄鍋関連遺跡。蝦夷戦争に関係する多賀城や秋田城で製品が出土している)

 

 では9世紀後半には蝦夷戦争はあったのであろうか。安倍墨縄は8世紀後半~末の桓武天皇のときの人物で、そのときの征夷とは結び付かない。しかし9世紀後半にも征夷はあったのである。それは日本海側の秋田城でおこった元慶の乱(878~879)である。乱は秋田城北側の蝦夷(エミシ)が苛政に反抗して起こした大規模な反乱である。これに対し律令国家は、出羽(秋田県)・陸奥(宮城・福島県など)の兵を派遣して鎮圧につとめたが、うまく行かず、関東の兵、とくに上野(群馬県)・下野(栃木県)の兵を派遣した。前の安倍墨縄の時の戦争(三十八年戦争)と同じように関東の兵力に期待したのである(『日本三代実録』)。

(元慶の乱の時の上野(群馬県)、下野(栃木県)からの兵の派遣)

 

 このときの上野・下野の兵は、前時代の軍団制度が終わっていたため、農民たちを急遽兵に仕立てたもので、装備も十分備わっていなかった。律令国家は急ぎ武器・武装の準備をしなければならなかった。甲冑など武具は国府などで保管されていたが、装備品、とくにこの鉄鍋はすでに国府などにはなかったのである。求められた両国の兵数は二千人であったが、鉄鍋は400個は必要であった。律令国家は、以後も反乱が続けば、関東全域からの派兵を必要になると考え、命令も下していたので、その数は膨大なものになるはずであった。

 

 時期がちょうど合うこと、それと古河が上野・下野と接する地点であることから、この元慶の乱での両国派兵と古河川戸台遺跡の鉄鍋生産が無関係であったとは考えられない。前の時代の征夷で陸奥への武器・備品を送った大規模な遺跡(福島県相馬市武井地区遺跡群など)が長期間にわたって営まれていたのに対し、古河川戸台遺跡は9世紀の半ば~後半の、ごく短期間に集中的に営まれ、それも大量生産しているのである。また古河や水海は、鎮守副将軍安倍墨縄を生んだように、征夷に深く関わる地域だったのである。さらに墨縄は鉄鍋などの軍需物資の輸送を期待されて征夷に登用された人物でもあった。川戸台遺跡は、元慶の乱の勃発で律令国家が猿嶋安倍氏に製造を求めた、国家的な製鉄・鋳造遺跡だと見るのが最も妥当なのである。

 

 以上の根拠で私は、川戸台遺跡を墨縄の時代と忠良の時代をつなぐ猿嶋安倍氏の考古資料と見ている。

 

 どうも猿嶋安倍氏は伝統的に陸奥・蝦夷(エミシ)社会と交易・商業で深くつながっていた氏族のようである。それを前提に国家は墨縄に陸奥への軍需物資の輸送を任わせ、さらに鎮守副将軍という指揮官にまで任じた。そして、次の時代には先端産業の一つである製鉄業も営み、鋳物加工という技術を加えて国家は再びそれを利用した。猿島安倍氏には輸送に必要な水運業はもちろんのこと、ほかに土器の須恵器作りの窯業や馬生産の牧畜業にも関わっていた節もある。国家外の蝦夷(エミシ)社会とも結ぶ多角的経営者であったという実態があり、律令国家がそれを利用し、蝦夷(エミシ)政策に結びつけて、軍需物資輸送や戦争指揮官、さらに先端産業の鉄鍋作りを行わせていたということである。将門時代の安倍忠良も、在地の多角的経営者であると同時に、国家や蝦夷社会との関係から見ていかなければならないのである。

(トランプとイーロン・マスク)

 以前のブログで、歴史は「英雄」が作るのではなく、技術革新に成功した在地の新興中間層が作ると書いた。将門の時代には「郡司富豪層」と言われる存在で、猿嶋安倍氏もその例に入り、将門の乱もその視点から見なければならないと書いた(ブログ「歴史は動いていく」)

 

 アメリカ大統領選挙で新興のIT経営者イーロン・マスクがトランプに多額の献金をし、結果、新しい政権に入ることになったが、私は猿嶋安倍氏の在り方はそれとよく似ていると思っている。歴史は「階級闘争」などではなく、権力と結んだこういう新しい技術をもつ新興中間層によって動かされて行く、と前に述べたが、猿島安倍氏は桓武平氏一族と関わって将門の乱に一定の役割を果たしていくのである。

 

 では、忠良は桓武平氏一族とどのような関係を結んだのであろうか。次回はその話をしたいと思う。

 

※以上は拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』(高志書院)で述べたものである。詳細はそれを参照されたい。

 

(続く)