(平将門の乱、その6)
「兄弟は他人の始まり」というが、一面では本当だと思う。親が生きているうちは盆・正月にはかならず集まり、兄弟仲良くやるが、それぞれ家を持っているので、親が死んだあとは次第に疎遠になっていく。小津安二郎の映画「東京物語」は、まだ老齢の親が生きているうちであるが、兄弟の他人化がよく描かれている。
(小津安二郎監督「東京物語」のポスター)
今回も、今までの平将門の乱の話を続けてみたい。
前々回には、乱勃発の数年前(延長9・931)の、将門と叔父平良兼の対立となった「女論」は、将門と良兼娘が結婚して10年ほどたっての事件であり、どうも福田豊彦さん(『平将門の乱』岩波新書)のいうような、結婚形態のもつれ(婿取りの時代に嫁取りをしてしまった)ではなさそうだ、と書いた。また前回は、「女論」の背景には、結婚(将門と良兼娘)後の、将門と叔父良兼の両家にまつわる政治的問題(一族の結びつき)や経済的問題(妻の持参する財産など)があるのでは、と書いた。それを深めるために今回は桓武平氏一族の、坂東での「立ち位置」を見てみたい。
まず、話のための前提を書いておきたい。
(920年代後半の平氏一族の勢力図)
(兵(つわもの)の姿)
(桓武平氏関係系図)
桓武平氏の祖の平高望(高望王・たかもちおう)の子供達には、長兄の国香(くにか)、次男の良持、三男の良兼(よしかね)、四男の良正、五男の良文の5人の息子たちがいた(「常陸大掾系図」など)。高望王が平姓を賜り、上総介(千葉県知事)として都から坂東に下ってきたときに一緒にやってきたと見られている。時期は平安時代の中ごろ、寛平5年(889)から間もないころであり、当時「群盗」(盗賊)の横行していた坂東の治安対策であったとよく言われている。その後高望は上総(千葉県中部)に土着し、その跡を三男の良兼が継ぎ、長男の国香は、妻の実家の源護(みなもとのまもる)の本拠の常陸真壁郡(茨城県桜川市)の石田に婿として屋敷をもらって住み、良兼も上総に住みながらも国香同様に源護の娘と結婚し真壁の服織(はとり)に屋敷をもらって通い、四男の良正も婿になった(『将門記』)。違ったのは将門の父でもある次男の良持と五男の良文であり、次男の良持は、いずこに住んだか不明であるが、前回も書いたように、おそらく跡を継いだ将門の本拠の下総国豊田郡・猿嶋郡(茨城県西部)であろうと私は考えている。五男の良文は系図などでは「村岡五郎」と記され、今は埼玉県熊谷市になる武蔵国大里郡熊谷郷村岡に住んだと見られている。なお近年の茨城大学の高橋修さんの研究では、長男の国香は、良兼がそうであるように、本拠が茨城県水戸市平戸(昔の「平津」)や涸沼(ひぬま)周辺であり、真壁郡の屋敷は岳父・源護との関係で住んだ二次的な拠点だろうとされている(高橋「内海世界の将門と貞盛」『地方史研究』413号)。
(NHK大河同ラマ「風と雲と虹と」の源護(西村晃、左)と平国香(佐野厚夫、右))
(同、鎮守府将軍・平良持(小林桂樹))
(同、平良兼(長門勇))
この5人の兄弟のうち、官職に就いたことが分かっているのは、常陸の国府の次官(今の副知事)である大掾(だいじょう)職に就いた国香と、下総国府の次官である介(すけ、同じく副知事)になった良兼、そして東北の蝦夷(エミシ)をを討つ軍政官である鎮守府将軍に就いた良持の3人である(『将門記』『将門略記』)。当時の国司の長官の守や介(今の県知事)は都から4年任期で下ってくる貴族であり、地元の3人は、地方有力者であるだけではなく、当時の関東や東北の行政・軍事に大きな力を持つ立場になっていたのである。
(陸奥鎮守府、胆沢城跡。ネット写真)
(当時の鎮守府の将軍館は鎮守府の南の現在の伯済寺付近にあった)
今までの将門の乱研究では、将門の親の世代のこの5人は、先のように、父と共に坂東で横行していた群盗を征圧する役割を果たしていたのだろう、とだけ考えられていた。後に「武士」となる「兵」(つわもの)の始まりなので、そう考えられて当然であった。「地方軍事貴族」という研究上の表現もある。ただ、それぞれが就いた国府での役職の意味合いや、地理的な位置の問題までは十分には考えられてこなかったのである。とくに将門の父鎮守府将軍に就いた良持については、兵(つわもの)の軍事部門での登用であろうとはいわれていたものの、蝦夷(エミシ)を征圧する武人としての認識に止まっていた。
しかし平高望が坂東に下って来たころは、律令国家から王朝国家へと国家形態が変化した時期で、地方行政の在り方もが大きく変化していた。任地に下った各国の長官の「守」は「受領」(ずりょう)と呼ばれ、都への税納入の義務さえ果たせば、あとは任国を自由に仕切れ、過酷な収奪も可能となっていたのである。「今昔物語集」に出る信濃守の藤原陳忠(のぶただ)の「受領は倒るるところに土をつかめ」の話はそのよい例である。
(受領は倒るるところに土をつかめ、藤原陳忠の絵)
とくに将門父の良持が就いた鎮守府将軍は、変化のあった地方行政では特別の意味合いがあった。陸奥の胆沢(いさわ、岩手県南部)にあった鎮守府は、元来多賀城(宮城県)にあった陸奥国府の配下にあって、鎮守府将軍もその指揮下にあった。しかし王朝国家になると、次第に独立化してゆき、第二国府的性格を持ち、将軍は「受領官」化していったと見られている(熊谷公男「「受領官」鎮守府将軍の成立」『中世の地域社会と交流』)。鎮守府将軍は「奥六郡」と呼ばれる、今の岩手県西部(北上盆地一帯)を管轄し、そこ以北に住む蝦夷(エミシ)社会から、蝦夷の特産品である馬や金・毛皮・鷲羽などを交易で得て、陸奥国府を通して都へ送る「受領」的役割を果たしていった。これらの物産は都の天皇・貴族層に珍重され、それがなければ朝廷の儀式や貴族の生活が成り立たないほどの意味を持っていた。もちろん鎮守府将軍自体が、莫大な富を得ることになった。将門の父良持はそういう時期の鎮守府将軍であったのである。けっして蝦夷を征圧する武人としてのみの将軍ではなかったのである。
(鎮守府が管轄した奥六郡の位置)
(蝦夷社会の特産物。鷲羽や良馬、砂金、毛皮などである。馬は貴族・武人たちの乗馬用、鷲羽は朝廷の儀式のときの官人たちの矢羽、砂金もその財力となった)
実はこのような役割は、前にブログ(「アテルイと墨縄は仲の良い商人同士だった?」)で書いた、良持より約130年前の、同じ下総国猿嶋郡出身の鎮守副将軍安倍猿嶋臣墨縄の役割と共通するものなのである。この点はとくに注意しておきたい。
では良持が鎮守府将軍に任じられた時期は正確にはいつごろであろうか。これは史料がないのではっきりしないのであるが、私は、先の将門と叔父良兼が「女論」で対立した延長9年(931)年の少し前、おそらく920年代の半ばのことと考えている。その理由は「女論」は良持の任期(4年)終了(おそらくその死)を契機として起こった問題ではなかろうか、と考えられること。「女論」のときの嫡男将門が30歳前後と見られることからすれば、父良持は、将軍就任時はおおよそ50歳前後で、鎮守府将軍の高い位階(「貴族」相当の五位)や、兄弟の国香・良兼の位階(六位)と比較してもその年齢が適当であること、である。
つぎに良持が鎮守府将軍に就いていた時期の兄弟たちやその子、また婿入り先など関係者の居住地や役職についてみてみよう。とくに受領官である鎮守府将軍良持が蝦夷の特産品を都まで輸送する視点から見てみたい。時期は920年代後半である(将門は20代後半)。
(蝦夷社会の富を収奪する鎮守府将軍に将門の父・平良持、輸送を中継する陸奥国府に良持の子の舅・伴有梁、関東で陸奥からの物資を京に送る役割の良持弟の平良兼、中継地の伊豆に良持子の平将武、受け取る京都に良持の甥になる兄国香の子、平貞盛がいた。
詳しいことは省くが、この時期には、まず陸奥国府(多賀城)には「権介」(今の副知事代理)という立場の現地有力者・「伴有梁」(とものありはり)なる人物がいた。この有梁には鎮守府将軍良持の末子の「平将種」(まさたね、将門弟)が婿に入っている。将種の年齢はおそらく10代後半である。陸奥国府は鎮守府将軍から蝦夷の特産品を最初に受け取り、都へ送る役割を果たしていた。実質を取り仕切っていたのはこの伴有梁であろう。
つぎに兄国香は、陸奥からの物資を経由する太平洋海運の要地、常陸吉田郡平津(水戸市平戸)に本拠を置き、それと涸沼や東海道陸路でつながる常陸国府(石岡市)の地元ナンバーワンの地位の大掾の地位についていた。
つぎに弟良兼は、これも陸奥からの太平洋海運の要地、上総武射(むさ)郡(千葉県山武郡横芝光町)に本拠を持ち、あわせて下総国国府(市川市)の地元ナンバーワンの地位の介の地位にあった。下総国府のあった市川市は東京湾に面し、河川や陸路東海道を使って、常陸・下総・上野・下野・武蔵北部はもちろんのこと、上の陸奥からの物資もそこを経由して集まり、東京湾から伊豆を経由して東北・北関東の物資を都へ送る交通の結節点であった。
つぎに弟良文は、陸奥からの陸路・東山道が上野で分岐する東山道武蔵路が、東京湾へ流れる荒川との交差する交通要衝の武蔵国熊谷郷に住んでいた。
そして物資が通過する伊豆には(場所は不明であるが)、陸奥国府同様に、鎮守府将軍良持の息子で将門の弟になる「将武」(まさたけ)なる人物がいた。これも将種同様、現地有力者に婿入りした人物と思われるが、年齢はおそらく20歳前後である。
さらに京都には、良持の兄の国香の子で将門のいとこになる平貞盛がいた。年齢は将門のいとこであるから、20代後半であろう。都で役職に就き、その職・地位は「左馬允」(さまのじょう)というもので、全国から貢上された良馬の飼育・調教をする役職であるが、先の鎮守府や陸奥国府からの交易馬の管理もする立場にあった。
(都で左馬允の地位についていたいとこの貞盛(右、山口崇)、左は平将門(加藤剛))
このように将門の父良持が鎮守府将軍に就いていた920年代後半には、良持兄弟やその子、また婿入り先の有力者が東北から京都への交通の要衝に勢力を張り、京都にも貞盛のような立場の者がいたのである。そして、蝦夷社会からの特産品の交易、都への輸送という視点で見ると、良持が鎮守府将軍に任じられたのは、その武力が期待されたと同時に、蝦夷社会の富の収奪の起点としてであったことが見えてくるのである。
(当時の北方特産物の輸送ルート概念図)
ここに、桓武平氏一族は、それぞれの立場やその本拠地でその輸送を一族こぞって行っていたのではないか、という一つの見方が出来てくる。
今までの研究では、将門が坂東独立国家を打ち立てたとき、東北を支配下に置こうとしていたとの見方はあったものの(川尻秋生『平将門の乱』吉川弘文館など)、蝦夷社会の富収奪と輸送の視点はなかった。経済的視点がなかったのである。しかし、920年代後半にはその形が出来ていたのである。平高望の下総介赴任に始まる桓武平氏の坂東移住は、横行していた群盗鎮圧だけでなく、王朝国家の東北蝦夷社会の富収奪の目的もあったという仮説が成立するのである。
平将門の乱以前の桓武平氏一族は、兄弟やその子、また婿入り先の有力者など、一族が協力し合ってその役割を京都の王朝国家のために果たしていた。そして920年代後半から間もない延長9年(931)にあの「女論」が起こり、それから間もなくして一族の対立・抗争から将門の乱が始まるのである。
「女論」は将門と叔父良兼との良兼娘をめぐる対立ではあったが、招婿婚をめぐるトラブルなど個人的問題ではなく、背景には王朝国家の蝦夷社会の富の収奪と輸送をめぐる一族内部の対立問題が横たわっていたと考えるべきなのである。その契機には将門の父、鎮守府将軍良持の死が関わっていたと私は考える。
盆・正月には親の許に兄弟やその子、親戚一同が集まり、一族として仲良くやるが、会社など経営を一つとする一族の場合には様々な利害関係がそこにうごめいている。親が死に、新しい時代になると主導権をめぐって対立が表面化する。そういう話とよく似ているような気がする。
次回は私の考える「女論」の中身、とくに下総国猿嶋郡での問題を、以前のブログ(「平将門の乱ー安倍忠良という人物ー」)で触れた猿嶋郡司・安倍忠良の動きを入れてお話ししてみたい。「女論」やその後の将門と良兼の戦争(豊田・猿島合戦)には、この人物がすくなからぬ関りがあったとするのが私の考えである。なおこの一連の話は拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』(高志書院)に詳しく述べておいた。参照されたい。
(続く)















