今でも「好きだから結婚する」ということだけで子供の結婚を許す親はいない。相手の家柄や収入、健康を考慮するし、長男・長女ならば将来同居してくれるのか、などど諸条件がついてくる。恋愛と結婚は別物なのは誰にでもわかることだ。極端な場合には、好きでもないのに、学歴、将来性だけで結婚を決める女性もいる。
(江戸時代の大名の「囲いもの」『絵本開中鏡』(歌川豊国、文政6年)。大名がすだれ越しに囲いものを見分しているところ)
江戸時代の結婚はもっとシビアで、農村では労働力目当てであったし、武家の結婚は家存続のための政治的な結び付きであり、商家の場合には取引先など商売の維持のためだった。
また嫁入りには妻方の財力が大きな意味をもっていた。嫁入りには持参金や田畑の財産を伴うのが普通で、これが結婚の決め手となっていた。離婚時には妻に返済しなければならないので、結婚も離婚も、持参金や妻方の財産次第だった。一方で、男の理想は、結婚は裕福な家の娘(正妻)とし、別に恋愛の相手(妾、「囲いもの」)を持つことで、それは社会でも認められていた。前近代社会では、「結婚」は「好きだから」などという甘いものではなく、家と家との「政治的」で「経済的」な行為だったのである。
(NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で平良兼役をやった長門勇)
(同じ大河ドラマで、常陸の元国司・源護の娘で平氏一族を婿に迎えた娘役の多岐川裕美)
『将門記』にも結婚の話がいくつか出て来る。将門の伯父・叔父たちと常陸(茨城県)の有力者・元国司の源護(みなもとのまもる)の娘たちの結婚である。叔父の良兼や伯父の国香は、それぞれ自分の本拠とは別に、岳父・護からその本拠(茨城県桜川市真壁)の近くに屋敷をもらい、暮らしたり通ったりしている。前回のブログ(「将門の女性問題」)でも書いた、当時の都で一般的であった貴族社会の招婿婚(婿取り)という結婚形態をとっていたのである
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(平将門の系図。将門の叔父が良持。その娘と将門は結婚した。いとこ同士の結婚)
(平将門、叔父の良兼、その婿入り先の源護の本拠。良兼は源護の常陸の真壁まで通っていた)
もちろんこの結婚は男女の個人的情愛関係などではない。伯父たちの父高望王(平高望)が上総(今の千葉県中部)の国司として都から下ってきて、その後土着したが、常陸の元国司の源護と、家と家との結びつき、つまり政治的な関係をもとうとしたからである。それぞれ後に武士となる「兵」(つわもの)の家の始まりであることからすれば、軍事的同盟関係を結ぼうとしたことが考えられる。
ただ、将門の父・良持の場合はこの源護の娘とは結婚していない。父高望からは別の役割を期待されたのであろう。その相手は不明であるが、下総国猿嶋郡や豊田郡あたりの豪族の娘の可能性が高い。良持の跡を継いだ息子の将門の本拠は、豊田郡の鎌輪(かまのわ、茨城県下妻市鎌庭)と猿嶋郡の石井(いわい、茨城県坂東市岩井)にあったからである。
(将門の妻。大河ドラマでは真野響子が演じた)
そして、『将門記』には将門の結婚の話も出て来るのである。相手の女性は、上総に本拠があった先の叔父良兼の娘である。前回も書いた「女論」の当事者の女性である。叔父・甥の関係である将門は、結婚後、延長9年(931)にこの女性をめぐる「女論」で良兼と仲違いし、合戦にもなったが(『歴代皇紀』)、それはどうやら大事にならずに収まっていく(『今昔物語』)。しかし4年後の承平5年(935)に再燃し、以後の一族内紛の始まりとなっていく。将門の乱の始まりである。
(承平7年(937)8月の将門一家の猿嶋郡逃走のルート)
将門と叔父良兼の争いは次第に激しさを増していくが、そのピークは承平7年(937)8月に行われたの豊田・猿嶋合戦である。合戦は、上総から2千の兵を率いて将門の本拠の豊田郡鎌輪を攻撃してきた良兼に対し、将門は敗北し、妻子を連れて猿嶋郡に逃走するという展開になる。逃走のルートは、前のブログ(「『将門記』の小さなコペルニクス的転回」)でも書いた、葦津江(境町長井戸沼)から広丈江(猿嶋郡家・古河市水海)、さらに陸閑奥岸(古河市古河)であった。しかし良兼軍の執拗な探索を受け、密告者もあって妻子は広丈江で捉えられ、良兼の本拠の上総に連れ戻されるという結果になった。
(大河ドラマの将門(加藤剛)と妻(真野響子))
妻を上総に連れ戻された将門について『将門記』の作者は、「その身は生きながらにその魂は死せるが如し」と、深く落胆した姿を記し、父のもとに連れ帰された妻については「真婦の心」を持ち「死」を願うほどであったと、夫婦の強い結びつきを叙述している。
この一文があるためであろうか、名著『平将門の乱』(岩波新書)を著した福田豊彦さんは、この妻を「懐恋の情」のある女性で「父に背いて逃げ帰る」(のちに弟たちの手引きで将門の許に戻る)「素朴で激しい女性」と評価している。
『将門記』の記述は、地理・地名などが正確で、「従軍記者」のように、将門の傍にいたものしか書けないような記述も多い。だから、この女性も確かに福田さんの評価のような性格の女性だったのだろうと思う。将門とその妻は。お互いを思いやる深い男女の情愛を持っていたことは間違いのないようである。
ただ、私がこの夫婦の結婚について一つの疑問を持つのは、なせ二人が結婚したのか、という、始まりの点なのである。前回のブログでも書いたように、当時の貴族社会の慣習である招婿婚(婿入り)ではなく、異例な嫁入り婚で、将門の家にこの女性は入ったのである。そこには特別の事情があったと考えるのが自然である。個人的な恋慕の情がそうさせたとの見方もできるが、二人はいとこ同士であったとはいえ、将門は下総(今の茨城県西部)、良兼娘は父良兼の本拠の上総(千葉県中部)にいて別々に成長した。幼少時よりすぐ傍にいて仲良かったという、近しい関係にあったわけではない。福田さんの言うような、男女の恋慕の情で、この女性が将門の許に、父の反対を押し切って嫁に行ったとはとうてい考えられないのである。二人の情愛の深さは結婚後に形成されたものと思う。結婚は別の事情を考えた方がよい、というのが私の考えである。
今までの将門の乱研究では、「女論」がこの女性をめぐる問題であり、「嫁入り婚」が将門と叔父良兼の対立を引き起こしたとまでは説明しているが、なぜ二人は結婚したのかという、始まりの部分の説明がない。これは将門の乱研究の大きな盲点なのである。
(大河ドラマの将門の父の良持(小林桂樹))
個人的な情愛で将門の許に嫁いでいったのではないとすれば、そこには将門の父良持と将門妻の父良兼との何らかの「政治的」「経済的」合意が背景にあったとの見るのが、一つの説として成り立つのである。そして「女論」とはその合意が何らかの理由で破綻した結果起こったものという見方もできるのである。
先に、江戸時代の武家・商家への嫁入りでは、政治的な結びつきや商売上の利害関係が大きな理由であり、さらに、妻方の財産が大きな意味をもち、そこでは持参金や田畑を伴うのが普通で、これが結婚の決め手となっていた、と述べた。将門の活躍した平安時代は、嫁入り婚が一般化する前の時代ではあるが、良兼娘の嫁入りにはそういう「経済的」問題が関わってきたことはおそらく間違いない、と思う。両家の家存続のためであり、娘を嫁に出す良兼の親としての思いでもある。まして坂東は、平和な江戸時代とは違う戦乱の巷であり、将門の親たちは、江戸時代の武家や商家以上の「政治的」関係を必要としたし、一方では財力を持った新興階級の兵(つわもの)でもあったのである。
では、将門の妻はどういう政治的・経済的目的のために将門の家に「嫁入り婚」という形で嫁いでいったのであろうか。それがあったから両者の結婚は成立したのであり、逆に、それが破綻したから「女論」という将門と良兼の対立も起きたのである。さらにそれは、以後に引き起こされて行く一族内紛、そして将門の当時の京都の王朝国家に対する反乱、坂東独立国家の創出という、かつてない日本歴史上の大問題にも発展していくのである。
将門の結婚も「女論」も一介の女性をめぐる個人的な問題ではない、歴史変化の根底にある大問題なのである(続く)。
※この話の詳しいことは、ある国立大学で非常勤講師をしているときに、その講義の一つとして行ったのであるが、女子学生たちには不評であった。レポートでは「好きでもないのに結婚したなんて」という意見が多かった。政治的結婚に自分たちの将来を重ねて聴いていたのであろう。将門夫婦は幸いに仲良かったのであるが、一般には地位や財力を持つ男は「妾」を持ってしまう。今騒がれているあの党首の不倫騒動を見ていると、昔も今も変わらないのだと思う。なお詳細は拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』(高志書院)を参照。