(平将門の乱、その4)
玉木とかいう党の代表が「不倫」をし、情けなくも奥さんに謝ったという。意気地のない話である。瀬戸内寂聴は井上光晴と命がけの恋をし、井上が死んだ後にはその遺骨まで欲しがったという。「不倫」とは身を焦がし、死んでも相手と一つになりたいと思うほどのものなのだ。「好きになる」とはそういうことなのだ。あの党代表はニセモノである。
(井上光晴と瀬戸内寂聴)
ところで男女問題の中でも、「女」をめぐって男同士が争うのもしばしば見受けられる。三角関係である。これは女だけではなく「男」をめぐっても同様である。それぞれ自分の「所有物」にしようとして修羅場を繰り広げるわけであるが、「好きになってしまったものはどうしようもない」という心根が、根底にある。瀬戸内と同じく人間の「業」なのだと思う。
そのような本源的な問題なので、三角関係でトラブルが起きれば、個人的な問題としてまずは考える。歴史的な事件についても同様である。
平将門の乱を活写した『将門記』(正確には抄略本『将門略記』)にも「女論」という、女性をめぐる争いが出て来る。あしかけ6年に渡った乱よりも前の、延長9年(931)に起こったもので、乱の前半の対立者である将門と叔父の平良兼の間で起こった争いである。これをのちの一族内紛の発端と見る見方もある。いずれにしても将門の乱研究では無視できない問題である。
それは、史料には「しかるに良兼、去る延長九年(931)を以て、聊か女論に依りて、舅甥の中すでに相違せり」(『将門略記』(『将門記』の抄略本))と出て来る。
これをめぐる解釈は江戸時代からあったが、当然、上のように男女の三角関係を考え、将門と叔父良兼が一人の女性をめぐって争ったと解釈されてきた。だれしも己の「業」に引き付けつけてみれば、そう考える。しかしこれは根拠のないもので、小説になりこそすれ、歴史学にはなり得ない。
(大森金五郎)
そこに歴史的な解釈を加えたのは大正から昭和初期の歴史家大森金五郎である。
大森は「女論」の結果が「舅甥の中すでに相違せり」となったことに注目した。良兼と将門は「舅甥」の関係であったのである。つまり、血縁的には将門は良兼の「甥」(良兼と将門の父良持は兄弟)ではあったが、また良兼は将門の「舅」(義理の父)でもあったのである。ここから、対立の原因の「女論」の「女」とは、奪い合った女ではなく、将門の許へ嫁いだ「良兼の娘」のことだ、と主張したのである(大森「武家時代の研究」第一巻)。
残念ながら「女論」は、色恋沙汰ではなかったのだ。婿と舅との間の婚姻関係のもつれ、つまり親戚同士である将門家と良兼家との婚姻をめぐる対立であったのである。大森によって。三面記事的な見方から歴史的見方へと転換していったのである。
(NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の将門(加藤剛)とその妻(真野響子)。この女性が「女論」の女性)
つぎにこれを深めたのが、東京工業大学にいた福田豊彦さんである。
福田さんは、『将門記』では、妻となった良兼娘が将門の家に同居していることに注目した。今は普通にあることだが、この夫の家への同居は当時の婚姻形態に反していたとみたのである。
(福田豊彦著『平将門の乱』岩波新書)
当時の結婚形態、とくに貴族社会のそれは、招婿婚(婿取り婚)といって、男が姓を変えずに女の家に婿入りし、援助を受け、後にはその家を自分の家とするのが一般的であった。「サザエさん」の家の、夫「マスオさん」である。今NHKでやっている大河ドラマ「光る君へ」でも、最初、道長は妻の倫子の家(左大臣・源雅信邸)に住み、その援助を受けて出世してゆく。
将門はそれに反して、自分の家に妻を同居させており(嫁取り婚)、福田さんはそれが将門と舅・良兼の対立の原因であり、それを「女論」と考えたのである(福田『平将門の乱』岩波新書)。
(NHK大河ドラマ「光る君へ」。源雅信(益岡徹)邸。その妻穆子(石野真子)、藤原道長(柄本佑)、妻倫子(黒木華)。道長は雅信の許に婿入りし暮らしている)
事実『将門記』には、将門の伯父・叔父たちは、常陸の有力者・元国司の源護の娘たちと婚姻し、婿として屋敷を近くにあてがわれ、基盤の一つとしていた(『将門記』)。当時の関東の兵(つわもの)たちがそういう慣習を持っていたのは、平氏や源氏など兵たちはもともと都の貴族出身であり、都の慣習を地方にもたらしたものと見たのである。これは説得力があり、この婚姻形態原因説はひろく支持を受けて、今は定説になっている。
しかし私はこれに疑問を持っている。桓武平氏など当時の兵(つわもの)の家でも、始祖である高望王(平高望)の上総の基盤は将門叔父の良兼が継承していた(高橋修「再考 平将門の乱」)。婿を継承者とするのではなく、実子の男子が本家を継いでいたようである。常陸の元国司・源護も婿の将門の伯父・叔父に継承させたのではなく、その息子たちに継がせたようである。息子たちは源護と同居していたか、近くに住んでいた(『将門記』)。今の様な嫁取り婚がまったく例外的なものであったとは考えられないのである。
そしてなによりも私が疑問に思うのは、「女論」が起こった時の将門の年齢である。私の研究では、女論が起こった延長9年(931)当時は、将門は30歳前後であり(拙著『平将門の乱と蝦夷戦争』)、当時の結婚年齢(10代後半~20代前半)からすれば、「女論」は結婚後10年ほどしての問題なのである。婚姻形態のもつれならば、結婚当初に問題になったはずであり、「女論」は婚姻形態とは別の原因を考えて見る余地がありそうなのである。
ではこの「女論」とは何が原因であったのであろうか。何が将門と叔父良兼を争わせたのであろうか。男女の心情は二の次の時代の、婚姻の持つ意味である。
(続く)





