(平将門の乱、その3)
前回の将門の乱の話を続けてみたい。
(NHK大河ドラマ「雲と風と虹と」の平将門(加藤剛))
将門の乱研究には長い歴史がある。将門は、武士の始まりと言われているし、ときの王朝国家に歯向かって坂東の独立を目指したという点で、鎌倉幕府の先駆けとも見られ、数えきれないほどの研究がある。
(真福寺本『将門記』、ネット写真)
将門の乱には『将門記』という格好の戦記文学が残されている。これがあるから研究が出来ているといっても言い過ぎではない。もし無かったら、「武士の始まり」とか「独立国家」などという事実は分からず、地方の一介の叛乱としてしか歴史に残らなかったはずである。
でも将門の乱研究は『将門記』に頼りすぎていると、私は思っている。前回で述べた「安倍忠良」なる猿嶋郡司は『将門記』には出てこないし、将門敗死情報を忠良に伝えた将門叔父の「平良文」も出てこない。それと、蝦夷(エミシ)社会と深く関わった安倍猿嶋臣墨縄など、前代の東北社会と猿嶋郡の関りが『将門記』にはほとんど影を落としていないのである。
少し発想を変えて見てみたいというのが私の出発点にある。小さな「コペルニクス的転回」とでもいうものである。
私の一番の目的意識は、東北・蝦夷(エミシ)社会との関りから将門の乱をみようとするものであるが、それは別に述べるとして、ここではまず、『将門記』に出てくる地名から見てみたい。
今までの研究では、将門の乱の舞台の一つとなった下総国猿嶋郡の範囲の問題が誤っていた。以前のブログ(「あれは天啓(神のお告げ)だったのだろうか」など)で書いたように、「安倍猿嶋臣墨縄」の本拠が旧姓「日下部」氏から日下部沼のあった古河市水海周辺であり、葛飾郡に位置していたと思われた古河地方が、実は古代では猿嶋郡に含まれていたということがその理由である。事実、日下部氏は「猿島郡人」とも出て来るのである(『続日本紀』)。
古代の郡の内部は、いくつかの「郷」で出来ていたが、古河地方まで含めた猿嶋郡の範囲と郷の位置を示すとつぎのようになる。
(狭域猿島郡説と広域猿島郡説。緑が狭域、赤が広域)
緑色の線が従来考えられた猿嶋郡の範囲(狭域猿島郡説)であるのに対し、赤い線が古河地方を含めた私の考える猿嶋郡の範囲(広域猿島郡説)である。この考えは私のオリジナルではなく、すでに明治時代の地理学者の吉田東伍氏(『大日本地名辞書)』や東大教授の藤懸静也氏(『郷土史教授資料』)も言っていた。また郡の中にある「郷」であるが、猿嶋郡の中に「色益(しかや)郷」というのがあり(「和名類聚抄」)、それが、水海に接する「釈迦」(しゃか)となったと見られることからも、私の説は間違いないものである。
ではこの立場に立って、将門の乱を見てみれば、新たにどういうことが言えるのであろうか。
(将門の拠点の一つ「鎌輪宿」の居館があったと推定される場所、ネット写真)
(子飼の渡しがあったと推定される場所、小貝川べり。ネット写真)
『将門記』で猿嶋郡のことが出て来るのは、承平7年(937)8月、伯父平良兼との抗争で、将門が敗れて、本拠の一つ豊田郡鎌輪(かまのわ)宿から猿嶋郡陸閑奥岸(くがかのおくのきし)まで逃げて来るくだりである。将門は緒戦の豊田郡「子飼の渡し」の合戦で敗れ、次の「堀津」の戦いでも敗れて、本拠を捨てて、まず猿嶋郡の「葦津(あしづ)の辺」まで妻子とともに逃げ落ちる。つぎに、そこも危険なので妻子を「広丈江(ひろたけのえ)」という湖沼に浮かぶ船に移し、自身はそこから「陸閑奥岸」まで逃れたと出て来る。
(飯沼は江戸時代に干拓された。2015年の関東・東北豪雨で堤防が切れ、昔の飯沼周辺に水があふれた。ネット写真)
猿嶋郡の地名として「葦津江」「広丈江」「陸閑奥岸」の3つが出て来るのであるが、狭域猿嶋郡説に立つ今までの研究では、いずれも豊田郡と猿嶋郡の境にある飯沼(いいぬま)という長大な湖沼にそれを比定してきた。しかし私の広域猿嶋郡説に立てば全く違う位置比定が出来るのである。
(真福寺本『将門記』)
(揚守敬旧蔵本『将門記』)
現在私たちが見ることのできる『将門記』は写本であり、それには2つのものがある。「真福寺本」と「揚守敬旧蔵本」というものである。より古い写本は「揚守敬旧蔵本」なのであるが、全文が写されている「真福寺本」の方が研究には主に利用されてきた。しかしより史料としてより信頼出来るのは「揚守敬旧蔵本」なのである。そこでは地名に訓み(よみ)が記されていて、猿嶋郡の地名が当時どう読まれていたかが分かり、「真福寺本」をもとにした読みと違う点がいくつかあるのである。下の写真がそれであるが、「陸閑奥岸」に右側に「クカカノオク」と訓が付けられている。「真福寺本」以後の読みでは「ムツヘ」と呼ばれ、狭域猿嶋郡説では「ムツヘ」から豊田郡の「六間」(ろっけん)などを当てているが、豊田郡の地であり明らかに誤りである。探すべきは猿嶋郡の中で「クカカ」と呼ばれた場所なのである。
(揚守敬旧蔵本『将門記』の猿嶋郡の箇所)
(「陸閑奥」の訓みの箇所。「クカカノオク」と読まれていた)
広域猿嶋郡説にたてば、すぐに思い浮かぶのは「古河」である。古河の地名は、奈良時代には万葉集東歌に「まくらがの許我(こが)の渡」と見えて、将門の時代にはすでにあった地名である。また「古河」の由来は、「空閑」(くが、「未開地」の意)や「陸」(くが、小高い陸地の意)から来ているという。古河はまた、先の万葉集東歌では、その渡し場に「韓梶」付の大型船舶の就航する渡良瀬川の河港でもあった。「陸閑奥岸」の「岸」は港も含めた場所を示しているが、これらのことから、古河であった可能性が高いのである。
また、詳細は省くが、将門一家が最初に逃げた「葦津江」は今の境町の西側に位置する長井戸沼であり、つぎに妻子を船舶に移した「広丈江」は猿島郡役所の水海に面する常陸川のことであり、そこには郡役所の港があり、多くの船舶が停泊していたと見られる(「水海」は古く「ミツ」と呼ばれており、重要港津の「御津」から来た地名である)。そして妻子を乗せた船とはそこを利用していた将門の持ち船と見られる。
(「帯山」の箇所。「帯」は「メクテ」と読まれていた)
さらに付け加えれば、妻子を「広丈江」の船に隠したあと、将門が「陸閑奥岸」に逃げていくときの箇所である。『将門記』の「揚守敬旧蔵本」では「帯山」して「陸閑奥岸」へ移動した出てくるが、「帯」のところの右側の訓では「メクテ」と見えるのである(上の写真)。狭域猿嶋郡説では、この部分を飯沼での出来事と見て、広丈江のすぐそばの地へ移動したと理解しているが、「メクテ」は「巡って行って」の意味であり、一定距離を陸路移動したと理解することの方が自然なのである。実はそれを裏付けるように、「広丈江」と見られる水海から古河へは、将門のすぐ後の時代には「奥大道」と呼ばれる、東北と関東(ひいては京都まで)を結ぶ主要幹線が通っていた。将門が「陸閑奥岸」まで一定距離の陸路を通って移動したということが方が正しい理解になるのである。
(狭域猿嶋郡説での、承平7年の将門一家逃走のルート。飯沼周辺のみで考えられていた)
(広域猿嶋郡説での将門一家逃走のルート。水海や古河まで将門は逃げてきている)
長々と自説を述べたが、「安倍猿島臣墨縄」や「猿島郡人日下部」氏がどこにいたのかという研究から、猿嶋郡の範囲を見直し、併せて『将門記』揚守敬本の訓を入れてみると、従来の地名比定の誤りが明らかになり、将門一家の逃走のルートや場所が新たに見えて来たのである。これは、私にとっては小さな「コペルニクス的転回」であった。これらの考えは昨年出した『平将門の乱と蝦夷戦争』(高志書院)に詳しく述べておいた。
(将門と叔父良兼の対立の「女論」の女性。将門妻で良兼の娘。「風と雲と虹と」では真野響子が演じた)
しかし問題はこれからである。なぜ将門はまず水海に逃げ、そこに妻子を隠したのか、また自身は古河まで逃げたのか、また後で述べたいが、『将門記』ではその直後に、将門やその妻子の潜む場所を良兼に内通した人物が出て来るのである。それによって将門の妻子(実は良兼の娘)は捉えられて、良兼の本拠の上総に連れて戻されるのであるが、これらの新たな事実と妻子に関わる展開は、水海周辺にいたあの「安倍忠良」の性格と動向、それから乱の発端である「女論」(将門の妻で叔父良兼の娘である女性をめぐる対立)にも深く関わってくる問題なのである。それらについてはまた別の機会のお話ししてみたいと思う。
(続く)














