(東国武士と京都文化、その2)
前回の続きをお話ししたい。
茨城県古河市の「関戸の宝塔」は、その手の石塔では、紀年銘のあるものでは日本最古となり、美術的にもきわめて優品であることが分かってきた。問題は、誰が、このようなものをこの地に作ったかである。
(関戸の宝塔全景)
推測の決め手の一つは、その紀年銘(年号)である。私は「仁安四年」(1169)と読んだが、平安末期のこの時期は、京都では後白河院政下で実権を握り始めていた平清盛の時代である。その時期の、当地に関わる人物であることは間違いない。
当時の古河地域は、京都の女院・皇族の八条院瞕子(あきこ)内親王を本家とする「下河辺荘」という荘園に含まれていた。下河辺荘は武士である下河辺行義(ゆきよし)によって開発された荘園で、行義は、当時都で活動していた武士の棟梁の源頼政の「郎等」(家来)となっていた。源頼政は八条院瞕子内親王に仕え、また源氏では一人、平治の乱(1159)後の平清盛と友好関係にあった。
(後白河法皇) (平清盛)
(下河辺荘と古河の位置)
下河辺行義は、仁安四年(1169)当時は30代の壮年期であったと推測されるが、自身は現地の管理者の下司(げし)になり、まず関戸などその私領を、京都の八条院蔵人で頼政の猶子(形式上の養子)の仲家に寄進して預所(あずかりどころ)になってもらい、さらに頼政を領家、八条院瞕子内親王を本家として仰ぎ、より広域的な地域を荘園として認めてもらっていたのである(上の地図、拙稿「東国武士団と都鄙間の文化交流」高橋修編『実像の中世武士団』高志書院)。
下河辺行義の子・行平(ゆきひら)は、鎌倉幕府が出来てからは、鎌倉に詰める御家人として頼朝の厚い信頼を得、二代将軍頼家の弓の師匠としても名をはせたが(『吾妻鏡』)、父行義は、幕府成立以前の京都にあって、頼政の「郎等」(家来)として平治の乱(1159)にも活躍している(『平治物語』)。また下河辺氏は内裏を警護する滝口の武士も勤めており(『吾妻鏡』)、行義の在京は一時的なものではなく、皇室の八条院瞕子内親王のそばに「侍」として居た可能性が高い(前掲拙稿)。
関戸の宝塔のあった古河市関戸は下河辺荘の中心私領の一つであり、おそらく行義の居館などがあったと思われる。行義は本拠の関戸から京へ頻繁に往復した生活を送り、京都文化をこの地にもたらしていたと推測されるのである。
(NHK「光る君へ」、ネット写真)
院政期最後の京都文化はよく「平氏文化」と呼ばれるが、実際には女院(にょいん)・八条院瞕子内親王がそうであったように、女院がパトロンとなって院の女房・近臣・侍たちを保護し、彼らはサロンを形成して、その文化は「女院文化」とも言われている。平氏文化はそのうちに含まれるものだという(五味文彦「女院と女房・侍」同『院政期社会の研究』山川出版社)。NHKで今放映している大河ドラマ「光る君へ」の紫式部の仕える中宮彰子のサロンをイメージすると分かりやすい。下河辺行義は、まさに京都文化を体現する女院文化サロンの周辺にいた「侍」であった可能性が高いのである。
前回書いたように、関戸の宝塔は形が優美で洗練された芸術性を持っている。細部は木造建築をそのまま模したような精巧さを持っている。このような石塔は、どう考えても地元仏師の作などではなく、文化・工芸の最先端の京都から仏師・工人を招いて造ったとしか考えられない。
(八条院の邸宅と七条町、野口実後掲著書より)
八条院の邸宅は現在のJR京都駅一帯の八条三坊にあり、その北側の七条町は、八条院のみならず、後白河院や平家に伺候するすぐれた手工業者が集住する空間であったという(野口実「京都七条町から列島諸地域へ」同『東国武士と京都』同成社)。関戸の北側に位置する小堤の古刹真言宗円満寺には密教法具4点が残されているが、うち2つの金銅製三鈷杵・同五鈷鈴は中国・唐で作成されたもので(下の写真の上のもの)、他の2品はそれらを模した国内品となり(下の写真の下のもの)、平安末期の作になるという(後藤道雄「茨城県に遺る中国唐代の美術」『茨城県立歴史館報』9)。これらは下河辺氏のよってもたらされた可能性が高いが(前掲拙稿)、後者2品はこの七条町の金属加工業者の手になるものかと推測されている(野口前掲書)。これらから見て、関戸の宝塔を京都の女院文化の作品と見ることに問題はないのである。
(古河市小堤の円満寺)
(中国・唐からもたらされた円満寺の密教法具)
(平安時代末に、上の2品を真似て作った国内品、円満寺蔵)
では、前回記した、関戸の宝塔の銘文の字形が、中国唐代やその前の六朝文化の古碑の書体に類似する点はどのように説明できるのあろうか。中国文化に関係するものは、先に記した小堤円満寺の唐で作成された密教法具2点がある。
この書体も密教法具も、作られた唐代(日本では奈良時代)に日本に伝わってきたものとは考えられない。石塔が作られた少し前に日本に伝わり、それを下河辺行義が得て、石塔の字体とし、また円満寺にもたらしたものと考えるのが最も適当である。とすると当時の日中間の貿易、つまり平清盛によって始められた日宋貿易でもたらされたと考えるのが適当になる。女院は当時の最高の文化サロンであり、そこに清盛の手を通してこれらの文物が入っていったのではあるまいか。そして瞕子から「侍」の下河辺行義の手へということである。
(中国の文物が京都を経て地方に)
以上のように見ていくと、関戸の宝塔は、東国武士・下河辺行義によって京都の仏師・工人を招いて作られたものとの私の推測が、全く矛盾がなく理解できるのである。
私が学生であった50年ほど前には、武士は草深い農村から生まれ、京都とは対立する存在で、最終的には頼朝・鎌倉幕府のもとに結集した彼らによって堕落した京都の天皇・貴族社会は打倒され、新しい時代が開かれていったと理解されていた。しかしその後の研究で、この様な見方は否定され、武士身分は京都で成立したことや、東国武士は地元にだけ拠点があるのではなく、一族全体で京都と本領(地方)との分業関係にあったことなど、京都なくしては武士が存在し得なかったことが明らかにされた。また京都と地方との力関係で、鎌倉幕府の成立やその後の展開が語られるようになった。
関戸の宝塔は、東国武士が京都の女院文化に深く関わり、それを自分の地へもたらしたものとして理解できる。これが私の結論であるが、それはまた、現在の武士研究の一こまをよく示しているのである。
平成2年、関戸の宝塔は総和町の文化財第1号として指定され、覆屋で保護されている。










