令和8年2月9日未明、衆議院議員選挙の大勢が判明いたしました。
日本人の政治意識はこの程度だったのか、戦争を知らない世代が圧倒的になるとはこういうことかと、とてつもないショックを受けています。このまま行けば間違いなく「改憲」へと突き進み、将来、今日2月9日が、「戦後」が終わり再び「戦前」が始まった特別な日として記憶されると思います。
戦後80年が過ぎ、もう先の大戦を直接知っている世代はほぼいなくなりました。しかし、その次の世代の私たちまでは、家族・親族に戦死した者がおり、戦争の「伝聞」は身近で、心に深く刻まれたものでした。でも私たちの世代がいなくなれば、「戦争の痛み」は何処にも存在しないものとなります。
私も高齢(72歳)となり、昨年9月に、フィリピンで戦死(餓死)した伯父・内山福之助の「生きた証」を記録に残さねばと、家族へ宛てた5枚の軍事郵便はがきを紹介いたしましたが(ブログ「戦死した伯父の生きた証」その1~5)、そのときは「総理談話」を出せない石破総理の状況にあっても、高市新内閣にそこまでの危機感は持っていませんでした。しかしこの不意打ちのような選挙とその結果を見て「時代は変わる」「戦争はそこまで来ている」と実感いたしました。
改めて戦死した者の実際を知ってもらいたいと思い、伯父の軍事郵便はがきのうち、最後のもの(その5)をを再掲したいと思います(2月9日未明)。
(戦死した伯父の生きた証、その5)
伯父・内山福之助の5枚目の軍事郵便はがきを紹介したいと思う。これが日本に送られてきた最後のものである。
(伯父・内山福之助の遺影)
(葉書の表)
これも前の葉書同様、伯父が父親の内山福太郎に宛てたものである。部隊も前回同様「比嶋(フィリピン)派遣」で、所属する上部組織の通称号も「威」と同じである。フィリピンで書かれたものであり、通称符号が同一であることは、以前と同様、部隊が「南方軍」の隷下に在ったことを示している。異なっているのは筆跡・インクの色の異なる「サイゴン」という文字が「比嶋派遣威」の左上にあることである。これがこの葉書が如何なる経緯で日本へ送られてきたかを示しており、この点は後で述べたい。
(総軍「南方軍」総司令官・陸軍元帥寺内寿一(右))
(第十四方面司令官・陸軍大将山下奉文。降伏時の写真)
前回も書いたように、「南方軍」とは東南アジア一帯を管轄する「総軍」のことで、昭和19年5月、ベトナムのサイゴンからフィリピンのマニラに総司令部を移していた。陸軍元帥・大将寺内寿一が引き続き総司令官を勤め、全体の防衛作戦を指揮していた。その隷下には「第十四方面軍」(通称符号「尚武」)があり、フィリピンの防衛を担当していた。9月26日に陸軍大将山下奉文が新たな司令官として任命され、10月に入って着任していた。寺内と山下の間には防衛方針をめぐって対立があったことは前回触れた通りである。
(葉書の裏)
まずこの葉書が出されたのはいつ頃のことであろうか。
「内地は朝夕寒さを感ずる様」「このお便りが着くころには、寒さも本格的になるでさう」とは、彼岸も過ぎ、10・11月ごろという印象を持つ。そして何よりも決定的な点は「目前に迫る一大決戦に臨み、益々張り切って居ります」「新聞でも御存知と思ひますが、ヤンキー共が当地の一端に上陸したとの事」という文言であろう。
(地図1、フィリピン戦争関連地図)
「目前に迫る一大決戦」とは、太平洋戦争の帰趨を決めた昭和19年10月以降のアメリカ軍のフィリピン島進攻のことで、とくに緒戦となるレイテ島上陸戦やそれを迎え撃ったレイテ沖海戦、さらにそれに続くルソン島での戦闘のことであろう(地図1)。レイテ沖海戦は10月24日から始まり、レイテ島上陸戦は10月20日を最初とするものであった。
(マッカーサーのレイテ島上陸)
「ヤンキー共が当地の一端に上陸したとの事」とは、10月20日のレイテ島への上陸を指すと思われるが、そこからこの葉書が書かれたのは、10月20日以後のさほど時間が経過していない時期、おそらく10月末から11月上旬のことと見られる。
この時伯父の一三七三部隊が何処に居たか、厚生労働省の記録では、部隊は最初マニラに居て、その後北方のバヨンボンに配置され、さらに伯父はキアンガンの山中で戦死したとあるので、この段階ではまだマニラに居たのだろうと思う(地図1・2)。
(地図2、マニラとバヨンポン、キアンガンの位置関係。ルソン島)
この葉書からは、アメリカ軍のレイテ島上陸開始に際しての日本軍の緊迫した様子が窺え、「我々も腕を鳴らして待って居りました。最後まで頑張ります」と、伯父の奮い立つ気持ちが生々しく伝わってくる。伯父にとってはおそらく最初の実戦であったと思う。
しかし上の言辞は軍人としての決意であり、心情の全てであったわけではない。続けて父親に書いているのは家への送金のことで「此の前、少額だが送ったと言いましたが、今度おくれてお送りいたしましたから、子供たちの学費にでも」と、家の経済状況のことをここでも心配しているのである。
レイテ沖海戦は3日後の10月26日には連合艦隊の大敗北で決着がついた。レイテ島の戦いの方は12月末まで続いたが、米軍の圧倒的勝利に終わった。
(塚本晋也監督『野火』(2018年))
(市川崑監督『野火』(1959年))
レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅した事で、日本軍は完全に補給線を断たれ、レイテ島で10万人、ルソン島で25万人いた兵ば孤立し、後方支援の無い自殺的戦闘を展開することとなった。
その後の経過は、翌20年1月初めから司令官山下は司令部をマニラから北方のバギオに移し、指揮下の「尚武」集団15万の兵士たちもルソン島北部に配され、山下の命ずる「自活自戦」「永久抗戦」の下、6月まで戦闘を続けることになる。しかし後退を続ける日本軍は、その後山岳地帯のジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるのみとなり、結果、多くの兵士が餓えに苦しみ、衰弱が進む中マラリアなどの伝染病や戦傷の悪化、また現地ゲリラの襲撃を受け、つぎつぎと斃れていった(この時期の兵士の状況は大岡昇平の小説『野火』に詳しい)。
当初は20数万人いたとも見られる兵士の数は戦争が終わった時には5万人となっていた。これほどの大軍がほとんど戦闘もないまま消え去ったことは戦史上かつて例を見ないとも言われる。
(地図3、伯父が亡くなったキアンガンの位置)
(現在のキアンガンと背後の山、ネット写真)
伯父がどのような経緯を辿って7月に亡くなったか。先にも書いたように、厚労省の記録では、ルソン島のマニラから北部のバヨンボンに配置された後のキアンガンでの死であるとされている。おそらく伯父の一三七三部隊は「尚武」集団の隷下に入り、1月にはバヨンポンに移動したと思われるが、山下司令官は最後は司令部をバギオからキアンガンまで移しており、最後に伯父は、おそらく司令部の移動に従ってキアンガンまで移り、司令部と共に山中を逃げまどう中での死であったのではないかと思われる(地図2・3、上の写真、山下はここで降伏している)。山下の命ずる「自活自戦」「永久抗戦」の結果としての「戦死」(餓死)であった。
最後に、伯父の葉書に他の人の手で「サイゴン」と書き加えられていることに触れておきたい。
レイテ沖海戦の是非をめぐって「南方軍」総司令官寺内寿一と隷下の「第十四方面軍」司令官山下奉文との間に対立があったと前に書いたが、その後寺内は、まだ続いていたレイテ島の戦いの決着を見ることなく、大本営の命令もあって11月17日にフィリピンからベトナムのサイゴンへ南方軍司令部ごと撤退することになる。寺内に対立していた山下は撤退していく寺内一行を見送ることすらしなかったという。
伯父の属する一三七三部隊はもちろんフィリピンに残り、上のように山下の「尚武」集団の隷下に入ったと見られるが、10月末~11月上旬のこの葉書は、制空権も失ったフィリピンからは空輸することは不可能であり、この11月17日の寺内・南方軍司令部のサイゴン移転に伴ってサイゴンまで運ばれ、その上で日本へ空輸されたものであったのではなかろうか。それ故、発送するときの検閲と共に「サイゴン」と書き加えられたのではなかったか、と思う。検閲者印が今までの部隊の検閲官「小田」ではなく、「□津」となっているのもそれを示そう。伯父の部隊(一三七三部隊)が最後まで「南方軍」の隷下に在ったことがそれを可能としたのかもしれない。
これが伯父の最後の葉書であった。
伯父の戦死公報はおそらく終戦後のことであろうが、生きている証の「軍事郵便はがき」を待ち望む父母・姉妹の思いはどのようであったかと思う。レイテ沖海戦の敗北やその後の日本軍のルソン島での抗戦などは、報道統制があったにせよそれなりに知ってたであろうが、いつかは「元気にしている」という葉書が来ることを信じていたに違いない。一年以上も伯父の軍事郵便はがきを待ちながら、戦死公報が家に届けられた時の父母・家族の落胆と悲しみは如何ばかりであったろうか、と思う。しかし彼らがすべて亡くなった今はそれを想像するのみである。
今実家の茶の間の長押の上には、祖父母・父母・叔母の遺影と共にこの伯父の遺影が、政府から戦後下賜された「陸軍伍長内山福之助」の位記・旭日章や靖国神社の写真とともに掲げられている。24歳で死んだ伯父だけが若い。
(伯父の絵付き葉書、ブログ(その2)で紹介)
この伯父の話は、お盆の時などに伯母の春子がよくしていた。嗚咽が止まらないこともあった。この5枚の葉書を取り出し、「兄ちゃんは優しかった」「字も絵も上手かった」と、ブログその2で紹介したセレベス島マナド港の絵をしみじみと見つめながら語っていた。もうこの伯母も10年近く前に亡くなった。

(慰霊団の献花、兄から写真提供)
(参拝所献花台の伯父の遺影と家族の写真。兄から写真提供)
昨年秋に実家の兄がこの伯父の慰霊に厚労省の慰霊団に加わってフィリピンまで行ってきた。亡くなったキアンガン近くの参拝所で、すでに皆鬼籍に入った親兄弟姉妹の写真を持って慰霊してきた(ブログ「伯父の戦死と歴史叙述」)。
私はこれまで70年間、5枚の葉書をじっくり読む機会はなかったが、兄の慰霊旅行を機会に文章を起こし、検閲があったため発信地・時期を記せなかった部分を推定し、伯父の置かれた環境や心情、また当時の家族のことを歴史的背景を踏まえて様々推察してみた(本ブログ、その1~4)。
80年という長い時間がたってしまったが、伯父の「生きた証」を残そうと思い立ってこのブログを書いてきた。長年の胸のつかえが取れたような、放り投げていた身内の責務をやっと果たしたような、そんな安堵の気持ちになっている。僅か24歳で悲運の死を遂げた伯父へのせめてもの供養になればと、そう思っている。
追記
10月10日、石破茂総理は退陣を直前にして、「何故あの先の大戦を防げなかったのか」という観点から異例の「総理所感」を発表した。そこでは、国民だけでなく重大な責任を持つメディアに対しても、沖縄戦・二度の原爆投下の悲劇を踏まえて「歴史を直視する」必要性を心底から強く訴えていた。閣議決定を必要とする「総理談話」が困難な今の右傾化状況(高市新内閣の成立)の中で、総理大臣の立場のみならず私人としての「遺言」のような気がした。私も同年齢で同じ戦後を生きて来ただけに、使命感に基づく「所感」との印象を強くした。戦後80年、私も伯父の5枚の軍事郵便はがきを読み解く(=「歴史を直視する」)中で、改めて同じ危機感を抱いている。
以上です。
昭和29年生まれの私は、戦争を知らずに人生を終えられる「運のよい世代」だと思っていましたが、その最晩年に至って、やはり親の世代と同じように社会の困難を経験するようになるのかも知れません。「サナエの推し活」に踊らされて歴史から何も学ばない愚かな同胞と共に。
















