私の企画したシンポジウムの3度目は平成29年(2017)に行ったもので、2度目のときの未達成の課題を、古河・川戸台遺跡の問題に特化して行ったものである。テーマは「古河川戸台遺跡をめぐる諸問題ー対蝦夷戦争・天台教団・平将門の乱ー」であった。
(茨城県古河市の位置。関東平野の中央に位置する)
(川戸台遺跡の調査区域。市道造成の事前調査で見出された。遺跡はこの左右に広がる。渡良瀬川の川湊を背後とする古代の官営製鉄・鋳造工場)
(工房跡の層位断面写真、報告書より)
(発見された膨大な遺物。鉄鍋の鋳型破片や鉄滓など。報告書より)
(シンポジウムのポスター。発見された「弥勒」の文字盤鋳型などを載せる)
(シンポジウムの資料集)
どういう目的でシンポジウムを企画したか、そのシンポジウムの資料集に私の書いた文章があるので、長くなるが載せておきたい。
趣旨-川戸台遺跡の国指定史跡へ向けて-
古河の町は、江戸時代、譜代大名・土井家の城下町として知られ、幕末の家老・鷹見泉石は古河の生んだ蘭学者として著名です。また戦国時代には、関東を支配した古河公方の御座所であり、五代百三十余年間、鎌倉にかわり関東の政治の中心でありました。移座の背景には、北関東における経済的中心性など、古河の持っている特別の土地柄があったと思われます。
古代の古河地方に関しては、万葉集東歌にうたわれる「許我(古河)の渡」が知られ、すでに渡良瀬川の渡船場や河港として賑わいを見せていたと思われます。しかし奈良・平安時代の古河については、それ以上のことはよく分かっていませんでした。
しかし平成21年から翌年にかけての「まくらがの里散歩道」造成事業での事前調査で、市内牧野地の「川戸台」から9世紀半ばから後半に営まれた大規模な製鉄遺跡が見出され、遺物の出土量から想定して「東日本最大級」の遺跡ではないかと評価されました。調査範囲は狭く、詳細は今後の遺跡全体の調査が必要ですが、昨年3月には市指定史跡に指定され、保存・調査の方向で今後の取り組みが進んでいます。
すでに古河市では、平成22年11月に、シンポジウム「古代・中世の古河地方を見直す-川戸台遺跡から古河公方へ-」が開催され、その記録集『古河の歴史を歩く』(高志書院、平成24年)が市民の皆様に公にされてきました。
今回改めてシンポジウムを開催しますは、二つの目的があります。一つは、前回のシンポジウム以後に調査報告書『川戸台遺跡』が刊行され、また新たな研究成果も公にされており、それら調査結果・研究成果を市民の皆様に広くお知らせしたいということです。もう一つは、「国指定史跡」に値する遺跡との多くの研究者の方たちの評価を踏まえ、それへ向けての運動の出発点にしたいということです。
ただ、その実現には、全面調査による遺跡の性格把握と歴史的位置づけが必要であります。また今後の保存・整備事業、さらにいかに市民生活に活用していくのかという将来設計も明確にされていかなければなりません。また保存・整備事業には、予算面で遺跡の国指定化が不可欠です。これらの実現には、市・県・国などの関係部署のご理解が不可欠ですが、運動を支えていただけるのは、何よりも遺跡を「かけがえのない市民の宝物」と思っていただける市民の皆様です。
このシンポジウムを開催いたします最大の目的は、従来よく分からなかった古河の古代の歴史について、川戸台遺跡という稀有の遺跡を通して市民の皆様にご理解をいただき、「古河公方や土井家の城下町・古河」とともに、遺跡を、歴史を通した今後の古河市の豊かな「町づくり」の一環に位置づけていきたいということにあります。
なにとぞ、市民の皆様のご理解とご協力をお願いいたしまして、趣旨説明とさせていただきます。
平成29年1月 古河市歴史シンポジウム実行委員会
(遺跡の調査報告書『茨城県古河市川戸台遺跡』古河市教育委員会、2012年9月)
この趣旨書にあるように、とくに平成24年(2012)に遺跡の報告書が刊行されて遺跡の詳細が明確になり、またそれを踏まえた研究成果も出始めたことが第2回目のシンポジウム開催のきっかけであった。それらを分かりやすく市民に知らせたいということや、「国指定史跡」に値するとの評価があることから、それに向けての運動の出発点にしたいという思惑があった。
そして何よりもこの遺跡を「古河公方や土井家の城下町・古河」だけでなく、古代古河の歴史を知る貴重な文化遺産として位置付け、「豊かなまちづくり」の一助にしたいという思いがあった。