新月 | 拾い読みあれこれ

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「凡そ月を愛する人で、新月を愛さないものはありますまい。名は新月といふけれど、実は新月ではないのです。月の齡を数へる場合には、満月を処女として、それから逆算して、所謂『新月』を老(た)けたりとしなければなりません。・・・満月が新月で、それからだんだんに欠けて行つて新月になるといふのが感情の上からは順当であるけれども、さうかと言つて、欠けるほど、細くなるほど、老いたりとするのは当らない。・・・満月が老い、朽ち、衰へて、新月となるのではなく、満月が研がれ、磨かれ、洗はれ、練られ、鍛へられつくして、その精髄があの新月の纖々たる色と形とをとつて現はれるのであります。ですから、四日月よりも三日月がよく、三日月よりも二日月に至つて、まさに月といふものの有らゆる粹と美とが発揮されて来るのです。そこで人は彼に『新』といふ名を与へずには置かない。他の物象にあつては、老いと言ふことは衰を意味するけれども、月にあつてのみは、老いが即ち粹(すゐ)となり、凄(せい)となり、新(しん)となる。」
(中里介山、『大菩薩峠』、第22巻、角川文庫1182、pp.181-182.)

我が国は先進国特有の課題山積。経済社会も成熟し、成長が、あれこれ難点があっても、それらを覆い隠してくれて発展していくというわけでもないだろう。まるで発展の極みで、満月のようだが、それはくすんでいる。ピークを過ぎたかに見える社会が終わりを確認し再生する機会を得るには、新月に至るような老いを完成させねばと思う。それは、自らを研ぎ、磨き、洗い、練り、鍛えることで新月になることであろう。再び精彩を放ち、「纖々たる色と形と」を示すためには避けて通れない身を削る作業が不可避。満月を目指す発想からは未来はないのではないかと思う。