「理趣経」は、人が生きているままで仏になれる。ただ一筋の道を説いてあるお経です。しかも一瞬のうちに悟りが開けるという正しい道です。その文章はほかのどんなお経よりもすぐれたもので、十七段に分けて説かれている教えの功徳は、迷っているあなたにかならず与えられるのです。あなたがなにを見ても聞いても、なにを嗅いでも味わっても、すべてが悟りの道に通じています。異性を抱きしめて愛する性欲さえも、悟りを開くきっかけとなるのです。


                愛と親密さ(Sex&Intimacy)を探究しよう


 真言宗でもっとも大事な経典である理趣経は、仏が十八会にわたって説かれた金剛頂経・第六会の経典です。その題名は、大楽金剛不空真実三昧耶経・般若波羅密多理趣品(だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう・はんにゃはらみたりしゅぼん)という長いものなので、略して理趣経といっています。

 理趣とは〝真理に趣く〟ことです。また、大楽とは〝大いなる楽しみ〟です。大きな楽しみは極楽のことであり、理趣経はこの世を極楽にするお経です。

 人はだれでも煩悩をもっていて、それが四苦八苦の苦しみを生む原因になるのですが、理趣経の目的は煩悩即菩提といって、煩悩をただちに菩薩(悟り)に変えてしまうことです。


 理趣行法に、入我我入観という観法があります。じっと瞑想しているうちに、〝われが仏のなかに入って往き、また仏もわれのなかに入ってくる〟と観念するのです。すると、やがて〝仏がわれか、われが仏か〟わからなくなってしまいます。これが入我我入であり、仏とわれが一体となる観法です。

 この仏が手塚治虫のいうコスモゾーン、つまりあの世という宇宙生命です。宇は空間、宙は時間ですから、コスモゾーンと一体になれば、時間も空間も超越した存在になってしまうのです。この入我我入することを、和尚は〝宇宙とのセックス〟と名づけています。


「人間同士の入我我入は、ほんの一瞬の小楽だ。人と仏、つまり、あの世の宇宙生命と入我我入するのが、永遠の大楽だよ。ここんところを、立川流はまちがえたんだな。このことをよく知っておかないと、性欲がさかんな若いあいだは小楽を楽しめるが、年をとって性行為ができなくなると、小楽どころか無楽になったと悲観することになってしまうからな。ところが…」


  (図説「理趣経」入門 大栗道榮著 すずき出版)


性を説いたお経

『理趣経』 『瑜祇経』 『宝篋印経』 ほか


異端・邪教とされた教えには、極めて性的な色彩の濃いものもあった。

だが、その根底には、人間の欲望を肯定し、それを性的レトリックで譬えた

仏教経典の存在があったのだ。そこに記されていた驚くべき内容とは…。



◎男女和合こそ即身成仏


 中世密教で大いに流行した思想に本覚(ほんがく)思想がある。一見、仏とはかけ離れたように見える凡夫も、実は〝本来の覚(悟り)性〟を生まれながらに具えているとするのが本覚思想で、究極的には仏も衆生も不二(ふに)と見なすのである。

 この思想をつきつめていくと、何度も転生して修道開悟する必要などなく、今生きているこの身このままが仏だという思想になる。これを凡夫本仏論という。また戒律で否定されている男女交会(こうえ)も肯定され、性的結合によって心身が一体化する境地こそ男女不二の境地、悟りの境地だという理屈になる。この極端な現実肯定思想が、中世においてはあらゆる宗派に広まり、異端思潮の大流行をみた。それら異端を代表するのが、真言宗から出た立川流なのである。

 立川流は醍醐三宝院の僧で謀反の罪により伊豆に流された仁寛阿闍梨(12世紀初頭)を祖とし、弟子の武蔵国の陰陽師が陰陽思想と密教をつきまぜて広め、南北朝の東寺長者で醍醐寺座主(ざす)の文観(もんかん)(1278~1357年)が大成したと伝えられるが、実態は定かではない。

 ともあれ、この異端は本覚思想の拡大解釈を究極にまで進めて、男女和合を即身成仏の要諦とし、日本中に性的な色彩に満ちた秘境を蔓延させた。その立川流が所衣(しょえ)の経典としたものに、以下の経論がある。


◎性欲を清浄なものとみる思想


 立川流がしばしば援用したのは、『大楽金剛不空真実三摩耶経』(『理趣経』)、『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経』(『瑜祇経』)、『大仏頂首楞厳経』、『宝篋印陀羅尼経』(『宝篋印経』)などの経典、『理趣経』注釈書の『理趣釈経』、『菩提心論』などの論書である。

 大日如来が十七清浄句を説く『理趣経』では、人間のあらゆる欲望が肯定され、性欲も「清浄な菩薩の位」と見なされる。この経に説かれる仏と凡夫の一致融合は即身成仏を掲げる密教の究極目標であり、仏凡一体の境地を同経は男女交会によって得られる大楽(究極のエクスタシー)によって譬えているのだが、立川流では比喩とはせず、経文そのままに受けとって、密儀の中で実践した。

 同様の解釈が『大仏頂首楞巌経(だぶっちょうしゅりょうごんきょう)』にも適用され、「男女二根(男性器と女性器)は即ちこれ菩薩涅槃の真処」という文章が、まさに字義どおりに受け取られたのである。

 立川流三部経のひとつに数えられる『瑜祇経』は金胎両部不二を説いた経典だが、その中に馬陰蔵(まおんぞう)三昧を説く部分がある。馬陰蔵とは、馬のように体内に収蔵されている仏の男根のことで、この馬陰蔵の観想を馬陰蔵三昧という。大日如来はこの三昧に入って愛染法(あいぜんほう)を説いたとされるが、立川流ではこれを「性の研究題目」(守山聖真)とした。

 また、一切の如来の全身舎利(遺骨)の功徳を積聚した40句からなる陀羅尼を説く『宝篋印経』からは、独自の舎利信仰が引き出されている。

 立川流では仏舎利を男女の赤白二渧(しゃくびゃくにたい)から生じたものとし、舎利の向こうに赤白二渧の和合による即身成仏の実相を見る。舎利の功徳とは、つまるところ母の赤い経血と父の白い精液に還元される。その二渧の結合によって生じた胎児は、母胎内ですでに大日如来と同体の仏となっているのであり、入滅して涅槃に入った仏がこの世に残した舎利にあふれんばかりの功徳があるのは、赤白二渧の和合によって生じたその身が、そのまま成仏していることの、いわば照明になっているのである。

 このように、立川流では経典の字句をそのままに解釈することで邪教化し、正統派によって抹殺された。けれども、その根底にある本覚思想は長く仏教界を支配し、俗流本覚思想は修験道などを介して民間に浸透し、近代にいたるまでその影響力を保持し続けたのである。


◇理趣経曼荼羅


 金剛界(男性原理)と胎蔵界(女性原理)が、観想の階梯をへて、合一にいたる様を図示している。

愛欲の昇華を説く十七清浄句

理趣経 (りしゅきょう)
愛と親密さ(Sex&Intimacy)を探究しよう

 この経典の特色は、同じ趣旨をもつ3種類の経典が、それぞれ三様にしていることである。『大般若経』の第十会(え)般若理趣分、『金剛項経』十八会の第六会、そして独立経典としての『理趣経』である。今日『理趣経』といえば、不空訳の独立経典のものを指す。

 構成は17段よりなり、各段の最後に種子(しゅじ)という、仏・菩薩などの各尊を一字で表した梵字が付されている。初段には、「妙適清浄句是菩薩(びょうてきしょうじょうくぜぼさつ)…」と続く十七清浄句が説かれ、本経の根幹を明示している。

 『理趣経』は、密教であって大乗仏教ではない。インドにおいても、タントラ仏教の歴史は、男女の愛欲について、原理的には二律背反な論理からなる、大乗仏教と密教の相克と調和を目指す過程そのものなのである。

 『理趣経』では男女の愛欲を肯定しているが、ただし、そこに求められているのは現象的・相対的・日常的な快楽ではなく、釈迦が体得したものと同じ大いなる楽にほかならない。

 『理趣経』の愛欲に関する部分は、十七清浄句によって詳細に分析されているが、それは、いわゆる妙適(びょうてき)という男女交会(こうえ)の恍惚境は、その本質において清浄であるがゆえに菩薩の境地へと昇華されていく、という精神の流れを明確化しているといえよう。

 妙適(びょうてき)・欲箭(よくせん)・触(そく)・愛縛(あいはく)・一切自在主(いっさいしさいしゅ)・見(けん)・適悦(てきえつ)・愛(あい)・慢(まん)・荘厳(そうげん)・意滋沢(いしたく)・光明(こうべい)・身楽(しんらく)・色(しょく)・声(せい)・香(きょう)・味(び)というのが十七清浄句である。一見してわかるとおり、肉体的煩悩から解脱への行程が明示されている。

 十七清浄句において説かれているのは、愛欲も人間も、与えられたままに、本然(ほんねん)のままに清浄とみなすということではなく、また、それを肯定しているものでもない。確かに愛欲は肯定されるであろう。しかし、それは単純に肯定されるわけでない。愛欲はまず否定され、その否定もまた否定された結果、はじめて仏の世界を形成していくのである。換言すれば、否定と、否定の否定による肯定との双方を一体化し、不一不二(ふいつふに)なるものとして、総体的にとらえる止揚が完成したとき、はじめて肉体的煩悩が精神性へと昇華され、すべてが融和した真理の世界が現出するのである。


 ①大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅密多理趣品

  (だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょうはんにゃはらみたりしゅぼん)

 ②全1巻

 ③不空

 ④天台宗・真言宗