(五木寛之著『愛に関する十二章』 ~第十一章 静かなる愛~より引用)



愛と親密さ(Sex&Intimacy)を探究しよう


(五木寛之著『愛に関する十二章』 ~第十一章 静かなる愛~より引用)

 

 「挿入」されたときのみ、セックスしたと考える。それ以外の行為でいかに絶頂感を味わっても、それはセックスではないという考え方の背後にも、キリスト教の原罪意識があると主張するのが、アメリカの研究家ジェイムス・N・パウエル氏です。彼は性愛術指南書『エロスと精気』という著書の中で、こう述べています。

 「挿入が『本番』と考えられるようになったのは、それが『セックスしている』からではない。それが唯一の生殖の道であり、だから唯一宗教的に是認された道であるからである。初期キリスト教は、挿入以外の性の快楽はすべて神への欺瞞、倒錯であると説いた(中略)、挿入は生殖のために必要であるけれども、少なくとも女性のオルガスムは必要ではないことを想起しておくべきである」

 この点に現代人のセックスの問題点があるように思えてなりません。女性たちが訴える、少しも気持ちがよくないセックス、生殖を伴わないセックスを繰り返し行うことの空しさ、無目的感―。そこにアダムとイブの原罪意識が反映されていたと考えると、滑稽でもあり、すこし恐ろしくもあります。(中略)

 特に雄翁一石を投じたのが、・・・イギリスの作家、D・H・ロレンスでした。彼が掲げたセックス観は子どもを生むための必要不可欠なセックスではなく、人間的感情の交歓、男女の対等な文化の交流であるというものでした。

 愛しあっている人間同士のセックスには、相手の喜びが自分の喜びであり、自分の喜びが相手の喜びであるという原理が働く、これこそ、非常な資本主義社会における唯一の人間復活であると主張したのでした。

(中略)

 アダルトビデオは、人々の欲情を刺激して、興奮させる目的で作られたビジネス商品です。そのアブノーマルな、激しいセックスを教科書の手本のように学んで、実践しようとする青少年、彼らのセックス観に大きなゆがみが出てくることは当然でしょう。

 そのような、心を置き去りにした動物的なアクロバットセックスに対する反省の声が、アメリカの中でもたびたび出てきたことは事実です。

 一例をあげれば、古くは19世紀半ばにアメリカ人のジョン・ノイズが発見したセックスの技法、「カレッツァ」という考え方です。イタリア語で愛撫を意味するカレッツァが指し示すセックスとは、生殖機能という役割とは別の意味を示唆するものでした。(中略)

 ノイズの理論によると、人間にはそれぞれ磁気の力があり、それがセックスを通して、相手の体に流れる、つまりセックスによって、磁気の交流がなされるというのです。

 男性器は磁気を交流させるときの導体であり、セックスの目的は男性器と女性器が深く静かに結合して、磁気がお互いの性器を通じて交流することにあるというのです。

 そういう考え方のもとで結合すると、男女とも性感がとても高まり、これまで味わったことがない、深く豊かな喜びに満たされるということを発見したのでした。